2016年4月14日から熊本は地震が続いています。  本日の訪問者 昨日は
       熊本大震災日記 xipoci版  その総合版はこちら    <2016年4月16日未明の地震で私が寝ていたはずの部屋・・タンスがごろり>

  

この日記が続いていたら地震が収まっていない証拠: もし突然途切れたら パソコンが壊れたか、電気が来ないか、他のインフラがこわれたか、私が壊れた時です。  
                                                                        

 震災直後編vol 1 2016年4月16日~5月13日の日記帳はご覧です   vol2 5月14日~6月16日版  vol3 6月17日~7月16日版   vol4 7月17日~8月16日版  vol5 8月17日~9月16日版  vol6 9月17日~10月16日版
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* Xipoci→Хиpocи=ヒロシ  昔ロシアを旅する前にロシア語を習っていたときやっと書けた私の名前、でもそのときスペルにиの文字がなく仕方なく発音記号<i>に代えた私だけの造語です。当時片言の文通はフェードアウト
     
5月13日(金)   13日の金曜日・・・本日も午前1時台に震度4の揺れで起こされた。まだまだ揺れは続いている。 この揺れは集中と分散を繰り返している。もう終わったかなと思わせるほど4,5時間揺れがないのだが、忘れようとする頃に突然の揺れの集中。(特に宇城市豊野、熊本西区の震度が大きく他は気づかないほどの揺れになってきたものの時々南区も大きく揺れる)

 昼から妻は看護師OBとして元職場の仲間や全国の院所から震災支援にきた看護師たちと大江の避難所に足浴介助のボランティア活動に参加、上は80代の看護師OBまでいて層が厚い。5時過ぎに帰ってきてその報告を聞くが、避難所はたいへんらしい。避難生活では一度も入浴したことがないという方がおられ、それではと銭湯に送っていった世話焼きのMさん。Mさんは被災者支援について、食事を毎日記録しているらしく、栄養価など考えない長期の食生活の悪影響を心配していた。パン類に偏った日があったり、高齢者にとってはなかなか馴染めない食生活の日々、健康を損なわないほうが珍しい。1ヶ月過ぎても家が壊れて帰れない人々が沢山避難所暮らしや自動車の中で生活している。
早急に安眠できる場所の提供が求められている。

それにニュースでは熊本市民病院は2年を目途に新築移転をすると(市長が言うが、)小児・新生児集中治療室(NICU)を中心として現行を縮小した形にするという。だが縮小してよいものか。今回のような災害でも制限なく受け入れ可能な頑丈な病院にして市民の生命を守る我々の病院になってほしいもの。
 今回の震災では公的病院が損壊して他病院への転院などという余計な負荷を加え、他院にまわされた震災のけが人に対して十分な手当が出来ないし入院も出来ず当日帰りとかもあったと言う話も。また同時に熊大病院へ市民病院からの移送によってベッド不足のため、既に入院して治療1日目で、追い出された重症な癌患者もいて、翌日から外来通院に変更された患者さん(私の元職場の同僚)もおられて、ホントに「市民病院の波紋」は市内で医療を受けている人たちまで巻き込む大騒ぎに発展してしまった。
 これらもまず(大型収客施設)MICE事業によって削られてしまった本末転倒の愚かな政治。MICE事業は市民の生命より優先するものでない、だから従来の大企業向け予算をきっぱりやめて市民病院の建て替え実行していたらこのような混乱も少なかったはずだ。という市民病院の経過を精査し震災での事実を集めて記録することも必要である。
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 妻のボランティアの間、私は孫のお守りで散策。近所で赤紙が貼られた建物が殆ど形もなく撤去されそうな気配である。ショベルカーが大活躍だ。(上写真)そのショベルカーを孫は大好きで近くで眺めようと近づいてしまうので、遠巻きに散歩の形で見せた。左右の建物の人たちは工事中は不在の様子。住人は、たった一夜にして家を失うとは思ってもおられなかったはずだ。
 散歩に出掛けた公園の砂場の砂にまで亀裂が入っている!!・・・これが揺れる現実だ。
 4コマ漫画の作者は浦本一代さん・・なかなか上手でしょう。(くまもと健康友の会だより2016年春号7Pより拝借)
モデルは20代のXipociです。

 初めての海外旅行は 僕 の場合、当時のソビエト連邦の旅(ハバロフスク・モスクワ。ブハラやサマルカンドの中央アジア)でした。
 明日出発までトランクは部屋の外に出しておいてくださいというインツーリストの案内人に言われたまま、ベランダという外に出しておいたものです。
 ところが実際は部屋の外というのは廊下の方なのですがXipociの頭では廊下は内にはいるのでした。だからあえて常識的なホントの外に出して・・ソ連ってすごいなあこんな高い所の荷物を運んでくれるんだ。きっと大型クレーンかリフト機械があるんだと理解していた僕だったのです。という訳で4コマ漫画は実話なのです。

 他にある四コマ漫画では「提灯屋さんで肉うどん」頼んだ僕がいたりして・・
生まれてずーっとこの”おっちょこちょい”は治りません.(^^)/
 治ったら大変!!私でなくなるのですわ。

  ところで昨日の日記であれだけ騒いだ霧島の煙 今日はあれ?消えてるぞ・・でも安心できない。


<放射線計測>
11:13   0.09μSv/h
13:20   0.11μSv/h
15:00   0.08μSv/h
5月12日(木)   晴天、朝から孫泣き調子狂った。原因分からず、娘も頭抱えていた。暑くなりそう。
午前中 猫支援に益城へ出掛ける。道が分からないので健軍を外れた電気屋の隣のAUショップで待ち合わせ、10分ほどでお出でになった。まだ水が来ていないそうで大変だ。(左側の写真は健軍の先:沼山津と益城の中間、ここも家の倒壊が大通り越しに散見される。さらに益城は壊滅的な被害地である。AUの駐車場で待ちながら・・)
 猫のための一仕事終えて家に帰ると、あら不思議!!孫はちゃんと逞しい人使いの荒い孫にまい戻っていた。そのあと我が家の猫は家人の足を離れない。何かを感じているのか不安なのか、・・大人は幼子と猫の気持ちをよく理解できないでいる。震災のつかの間の休息の時
17:07宇城を中心に震度4がまたやってきた。そのあとも阿蘇方面やら近くやら相変わらず小さく揺れている。

 夕陽を眺めに孫連れて公園まで散歩に出掛けるか。と書いて汗びっしょりかいて帰ってきた。公園では好きなように遊び回るが行き帰りは抱っこと言われて、疲れる・木部公園にも震災ゴミが貯まりはじめた。
 そういえば数日前木曜日は害虫駆除のクスリを撒くといっていたような・・と帰ってきて思い出した。あらまあ!忘れていた!!大丈夫だろか

 水も来ない被災地での暮らしは厳しい。今日手渡した猫の食事、4匹は食べてるだろうか?、人間も動物もみんな仲良くこの危機を乗り越えて、頑張っていけたらなあ、少しの揺れでも危うい家屋で緊張のまま過ごす方もおられる益城・阿蘇・西原・嘉島はもう揺らすなと地獄の神様に祈るばかりだ。
 土日は晴れらしいので西原村へ後片付けに行く予定。どーんという音が聞こえると緊張してしまう、揺れには慣れたけど、そのたびに緊張は続いている。それだけでは、確かにストレスが貯まるばかりだ。他のことを考えることや趣味を再開して揺れと真正面に対面しないことでバイパスの役目をしているのだろう。今夜も楽しいこと考えよう。

霧島(えびの高原)火山からの煙が見えてる。21時前の画像、監視カメラから拝借しました。 右には霧島(韓国岳の噴煙)も・・いつも観察しているけど今日は異常ではないか・・でもまったく報道はない。
 <放射線計測値> いろんな情報が信用出来ないから自分達で守るしかない
2016年5月12日いつもの机の上 16:00 0.10μSv/h
 16:13 0.15μSv/h まで上がっている。普通の倍近い値だ。何かあったのかな?
 16:25 0.08μSv/h に戻っていた。
今日は日常取り戻しのために14MHzで茨城県龍ケ崎の局と交信、わずか2mH(給電部)のGPで交信できた。相手のアンテナに救われたにすぎないが、地震の話題に始終した。地震後山鹿の局とは交信しているが市内の局とは初めてだと言われた。まだまだ空にでれない仲間が多いのだろう。賢い局は揺れてもよいようにアンテナを降ろしているのが大半だ。近所の局が再開して賑わうのは、まだ先になるのだろうか。まずは住まいの確保から、趣味の順位はずっとあとのこと。
今日は台湾、北海道と南北で揺れている。果てしない連鎖がはじまったのだろうか??  <火山は大丈夫?>気象庁のカメラをみて思うこと。
19時から20時前後の九州の火山を気象庁の監視カメラで覗いてみた。するといつもは噴煙がない韓国岳と新燃岳の画像に噴煙が見える。火山情報をみても何事も表示がない。
 霧島はヤバイ状態だろうか?

詳細はここを見て確認するとよい

この熊本地震では活断層が阿蘇山のカルデラまで達しているとの報道があるが、草千里の道路は滅茶苦茶になっている。その草千里の下にマグマ溜りが存在するという。そのマグマ溜りを地震の亀裂が破壊すると、中のマグマがドロリと漏れてくるのではないかと素人は思うのだが・・そんな馬鹿なことは
ないのだろうか??
より圧力の弱そうな岩盤へドローリと漏れてくると、カルデラの中は真っ赤なマグマで満たされるのではないか?
これは私だけの疑問だ。
 阿蘇は大丈夫というのでたぶん大丈夫だろう。でも他の火山同様に活発化しそうだ。とXipociだけは思うのだ。
 5月11日(水)  震災ゴミで近くの公園は満杯になった。中には便乗ゴミもあるようだ。震災一月にもなるが関連ゴミはなかなか減らない。
 緊急車両が通過できるよう、道路沿いの震災ゴミはすっかり片付いたが、公園のゴミは通行の邪魔にならないからか手つかずのまま。各町内も同様で、もうしばらく処理できそうもないらしい。

昨夜Nさんの電話番号判明、今日こそは猫救援物資を渡せるかと電話したら、先方は大事な用件の最中で明日に約束した。明日は益城に行く予定。

空はどんよりした一部晴天、一部雷雲・・どっちつかずの天気だ。揺れはほとんどない。元気過ぎる孫の相手はもう飽きた。そろそろどこか揺れのない世界に遠出して気分転換したいものだ。・・地震のない国といえば・・北欧だろうか。静かにぐっすり眠っておいしい朝食が食べたいなあ・・夢みたいな話だが。
 2016年5月11日 14時20分 熊本市南区の自宅2F机の上 0.08μSv/h
同所にて 20時50分 0.11μSv/h
      21時34分 0.12μSv/h
孫は元気過ぎだ。追いつけないぞ!
そろそろ田んぼ道にはニョロニョロが出る時期なので、草場は抱っこしての
散歩、爺さんは腰が痛い。

本日の揺れは少ない。このままずーっと収まってくれないだろうか。とこのページで地獄の黒幕にお願いしょう。
・・「次の闘いはこの孫が仕事終わってからにして」と。そのとき孫は断層のことを気にして家を選んでいるものやら。遠い先のことだがそれも心配になる
 
<文科系の淘汰の心配>
・・・地震の神様も忙しかろうから、「また400年後に」と伝えても・・子孫もまたすっかり忘れているだろう。
その頃、古文書を読む人はいないだろうな。日本では目先の金に結びつく実利科学優先で文系の学問は既に淘汰されて、過去を研究する物好きがいるかも疑問なのですが。というXipoci
 
5月10日(火)   今朝から芦北沖で3回揺れ水俣では震度3もあった様子、そんな訳で私はこの日車で南下することに躊躇していた。それでも娘の検診はちゃんと受けさせなければという思いもあって予定通りに出発した。<結果論だが偶然にも8時28分~13時41分までの間は揺れなしとは不思議。>その間に八代を往復した。午前9時30分出発し、途中小川のイオンモールで小便休憩(ここは一部食品館付近は開いていたが蔦屋など専門店は閉店している模様。周囲はブルーシート屋根多い)して娘の定期診察先の八代の産婦人科まで送った。そのあと2歳の孫を連れて八代ユメタウンへ。全く地震なんて関係ないというような場所で、普段通りの賑やかさで同じ被災地なのかと思うほどだ。もし揺れたら孫を守れるだろうかと大きな物の下敷きにならない場所ばかり選んで歩く。おもちゃ売り場を中心にキッズプレイルームで自動車遊びなどして待ち時間2時間ほどで診察が終わり、帰りは産科の近くの道路で娘を拾う。途上の竜北の道の駅に寄って昼飯を買う。その後熊本まで3号線をスイスイと戻り、買ってきた弁当を食べて、のんびりしている時に13時41分の揺れ(宇城市不知火の震度3=姉がいる場所)あった。それでまだ”揺れの非常事態中であること”を意識してしまう。
 既に朝10時過ぎには宇城市に山沿いの地域で避難勧告が出され大雨が県下一円だとラジオは脅していた。夕方には雨は小降りになっており、土砂崩れなど起こらないことを願う。と書いてる16:12JSTも揺れがきた。西区で震度2だった。
 
南の揺れ(=唯一稼働中の川内原発がある)が気に掛かるので今日から放射線量を量ることにした。
 2016年5月10日14:50の線量 0.11μSv/h・・いつもと比べて多い線量である(測定器RADEX社製)2F机の上の値・・・川内原発は異常なしという報告ばかり・・・で肝心な時の事故を隠して知らせないので自分達で測定して生命を守るしかない。東北大震災の時の、何億円もかけたシステムを非公開にしたSPEEDI. (緊急時迅速放射能影響予測 )の件も許せないことだった。
5月9日(月)   午前2時頃 微かな揺れで起きてしまい、階段から阿蘇方向を眺めるとほの明るいやや赤みを帯びた光が見えた。夏の晴れ間なら小学校の校庭でナイターでもやっているような明るさだが、この真夜中、それも雨の中にほの明るいのが不思議だと思いi-phoneで写真撮る。何だろう?(もしかして避難所の照明かなと妻はいふ)
 阿蘇は大丈夫だろうかというモヤモヤした不安が膨らむ。400年前のことは知らないが、今起きている地殻変動はどうやって収まるのだろう?
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夕方小雨なのに孫は外へ行こうというので、仕方なく団地を一周まわってみた。近くには5年前まで住んでいた元自宅がある。それは、昭和40年代の古い住宅でも、2度の大きな揺れに耐えていた。次の入居住民は若くて建築の仕事をされているが、入居2ヶ月目の災難だった。始めの揺れのあと2階部分を補強されたそうで、それがなかったら2回目の強震ではダメだったかもしれないと話されていた。若いので雨も構わず復旧作業に頑張っておられた。
その反対側の50m先の路地にあった立派な家は瓦が重かったのが傾いてしまった。少しの力が加わると倒壊しそうだったので「赤紙」が貼られていた。先週から家屋の解体作業が続いていたが、既に夕方5時を過ぎて運転手も帰ったあとだった。明日は大雨注意と予報が出ている。作業を早く終わらせなければ隣の家に傾いてしまうと余計な心配をしてしまう。(既に隣も避難済み)
 明日は大雨が降るかもしれない、山小屋の上の亀裂が益々心配になる。

 (看護師OBの)妻たちは避難所での足浴の手伝いに金曜日から始動すると連絡とりあっていた。彼女らは頑張り屋で結束が固く実行力がある。
特技のない私は強い揺れを警戒して朝から晩までオロオロしながら情報を見ながら心配しているばかりである。役立たずな毎日だ。
 <地震の沈黙>
今日も短波はノイズばかり多い。
3.5から28Mhz 迄 使い物にならない。私だけの現象かもしれない。2mHグランドプレーンと4mHのインバーテッドのアンテナしかないため地表に近すぎるためだろうか。そんな状況のなかアンテナを切り替えながら交信中の局に耳を傾ける。
 そんな悪い状況にも関わらずホントに無線が好きな人の会話は聞いていて楽しい。コンデンサーの話やら、音の話やらいろいろ広がっていく。3.5、7.14の各周波数で話すベテラン局に耳を傾ける。18,21,28はコンディションがすぐ変わるから詳しい話は出来ない周波数だ。私は相も変わらず・・地震の中の沈黙かな。
5月8日(日)  頭の中はゴチャゴチャしたままの日曜日、昼飯食べたあとに最大震度3の揺れがあったようで震源は北(菊陽、西原、合志市、益城が3,南区は1くらいか揺れは長いが立っている者は気づかぬ程度)・・14時前から小雨が降り出してきた。16時には雨が降り始めた。明日も降るらしい。

 大型店の破壊ぶりはたいへんなようだ。我が家から10分のゆめタウンやイオンモールも全館再開はいつになるか不明だ。もしあの揺れが昼間だったらどんな人的被害を被っていたか想像出来ない。新幹線だって沢山のお客さんを乗せて走っていただろう。道路だって車がいっぱいならび俵山トンネルや大橋で何台も遭難していたことだろう。・・まだ気象庁では「震度6程度の地震に注意」という言葉を使っている。
しばらくは、よほど構造上安全な場所を選ばなければ会議やら集会やらは開催できないし、この予報が続く限りは多数が集まる場を持ってはいけないのかもしれない。リスク回避のためには小中学校の再開も伸ばしたほうがよいのだが、学校はそれなりの考えと対策があるのだろう。家をなくした子どもが多数いる中、下校後の勉強する場所なんてないだろうに。明日か明後日からの登校日が殆どだ。そして明日からも雨になる。この登校日は、家が残った子と家を失った子が同じ教室で対面する日でもあり、その会話は子どもの記憶に残るに違いない。・・・避難所でTVインタビューされた子どもは「友だちに会える」と大喜びしていたが、大人の都合を知らない純粋な子どもを泣かせてはいけない。

 漏れのない住宅再建への支援とさらなるこれからの生活支援が重要になる。・・国の舵取り人を自称する偉い人は外遊しては、よい顔をしてお金を外国のインフラ投資ばかりにまわしているが・・・それを 改め、いま真に困っている同胞を泣かせないようにしてほしいもの。
 
猫支援に行こうと計画していたがまだ連絡なく気長に待つ。午前に1件不在通知が携帯に残っていたのでもしかしたらNさんかなと掛けたが、結局7回目にその携帯は西原村のHさんの新しく購入された携帯と判明。これで携帯が通じるため安心だ。

 2歳の孫の散歩がなかなか大変だ。歩きが早すぎて爺さんの足がついていけない。途中で泥水を触ったり、公園では砂場で泥を口に持っていこうとしたり、ちょっと目を離すと何をしでかすか分からない。
 特に長いブロック塀では揺れがきたら倒れる可能性もあって、いつでも手元におかなければとつい抱っこして歩くが、腰も痛くなる。震災の時の子守りは大変だ。
 身重で旦那が居ない時の娘の子守は爺さんよりさらに困難だなあと思ってしまう。
熊本の復興は孫の世代になるのかもしれない。そして次の揺れは400年後の子孫に委ねようかな。・・・と呟くXipociであった。 
5月7日(土)   今日は曇天。PM2.5のせいかどうか、どんよりとした気持ちが晴れない日。朝から孫の散歩で木部公園へ。公園は草刈りがされていて芝生も短く綺麗に揃っていた。来週木曜に殺虫剤散布するそうで、近づかないようにと帰り支度の草刈り担当者から教えられた。ここにも災害支援(鹿児島から)車が助っ人に来ていた。各地からの手伝いがあちこちに入ってきている。直接の震災支援の合間に手伝っている。・・ありがたい。
 現在私が問題と思っているのは鹿児島県の川内原発、唯一日本で稼働中の原発、ここが不安を増幅させている。日奈久断層の先 海の中の断層は確かめようもないからだ。
 これを書いている本日19時半現在4回大きく揺れている、18:16にマグニチュード4.7(左側図)や17:13にはマグニチュード4.5特に14:47にはマグニチュード5.3(気象庁のHPによると・・07日14時42分頃地震他1回があり計4回の揺れが続いている。震源地は薩摩半島西方沖(北緯31.1度、東経129.1度)で、震源の深さは約20km、地震の規模(マグニチュード)は5.3と推定)という少し大きめの地震は右側図のように連続しており、同所では昨日もマグニチュード4.9の地震があった。もう少し大きいと津波もあり得る。本当にこのまま原発を止めないで後悔しないのだろうか。誰も責任だけはとらない原発事故をまた起こすのか。熊本の被災者は怒ってるんだぞ!!何故、政府も九電ももう少し九州に住み暮らす人々の不安を分からないものだろうか。被災者の声をしっかり受け止めて欲しいのだが・・どうしょうもない!!

 4匹の猫と避難生活をされている益城サロンのNさんのシニアネットML投稿が目についた。頂いた猫支援物資を分けて届けるとメールしているが未だメール返信が来ない。メールにも気づかれていないようで、明日以降になるかな。4匹の猫がいるので避難所には行けず車の中で頑張っておられた様子。揺れが少なくなって危ないながら断水の自宅に戻っておられる内容だった。電話番号も住所も不明のため・・待ちが続いている。明日は天気も回復して暑くなりそうだ。
 長期、避難所で頑張るネットの仲間は大丈夫だろうか。嘉島の三郎さんも家にはおれないため5月には引っ越しされるとの報告もあった。あの大震災で家をなくされた方、もう住めないという方も多い。まだまだ揺れが収まる気配もない。あまり揺れてない日奈久断層の歪 が心配だともう一度書く5月7日のXipociだった。
 5月6日(金)  雨。どんよりと曇りの朝一番に揺れた。揺れ残りは日奈久断層、龍田山断層、断層か。今日は、く宇城と西区、南区と大津周辺が揺れていた。次はどこが揺れるのだろうか?原発のある川内近くの断層は大丈夫だろうか?白川の崖は大丈夫だろうかと・・揺れと雨のことを考えるとこれからの季節はさらに眠れなくなる。

<瓦は必要なのか>
地震を考えると瓦屋根の利点とは何かあるのだろうか?私は何もメリットはないような気がする。それでも必ず新築では瓦を使う。台風でも瓦は危ないがスレートが飛べば刃物みたいに これも危険だ。地震でも台風でも優れている屋根は何かないのだろうか。

<震災便乗泥棒に注意>
火事場泥棒的震災泥棒が流行っている。今日も近所に覆面パトカーが来ていたそうだ。倒壊寸前の家の中から堂々と品定めして盗み出した不埒物がいたのだろう。西原村には「普段あまり見ない他所者がきたら通報してください」という札が電柱などに貼ってあった。他人の不幸で自らの蓄財をするなんて許せない。打ち首だと言ったタレントがいたが同感だ。・・
<孫の守り>
まだまだ揺れは収まらない。雨の中、外出出来ず孫の相手・・私にはどうも性に合わないのか間が持たなく、すぐ逃げ出してしまう。我がじいさん(父)は偉かった。30年前の父の日記を読んでいると田んぼでカエル釣りや草笛作りやっていたことなど書いてある。よく散歩にも連れ出していた様子。私が突然、絵本読んでやっても 早口になってしまい孫は目を白黒。何もかもうまくいかない。明日天気になれば近所の散歩にでかけようか。非常時の素人爺さんはつらいんだぞ。言葉にならない2歳児の話は面白い。それはまるで爺さん(私)そっくりの発語だ。!(^^)! ・・・写真は西原のAZULの庭・・咲く花の色は黄色、自然は何も恐れず、薔薇は揺れ知らず。
 今日のNEWSで2回目の地震は阪神大震災の1.3倍の破壊力があったという調査結果があった。yahooニュースより
凄い破壊力があちことで実感できた。特に人工建造物(道路や家など)はいとも簡単にくねくねになってしまうほどだ。


<昨年の今頃のお茶摘み>
昨年の今頃は地震のことを全く考えなかった。まさか我が身の上に400年ぶりの地震が襲うなんて想像さえしなかった。起きたら大変だなあという戒めのデーターを眺めていたに過ぎない。
次は何事が起こるのか、いろんな話に半信半疑になってしまう。所詮自然の中では弱い存在であることを再確認するだけなのだが、・・南海トラフなど・・
今夜も色々調べながら、のたうち回って眠るのかと・・Xipociは梅酒にまた手を伸ばすのだった。
5月5日(木)   晴天。今日は強力な助っ人家族が山小屋に来てくれた。怪力のSさんと一緒にタンスを起こすと、命拾いした場所に3週間ぶりに畳がある。
山小屋レスキューも無事終わり。明日は雨が降り、山の亀裂がまた心配に。
先日の風で長いビニールシートは外れたり、ひっくりくり返っているところ
がほとんど。だから素人工事はダメなのだ。土嚢追加をして少しはましになったようである。(また晴天時に確認が必要)

<空っぽになった展示棚>
スチール製の棚は倒れなかった。川口君の作品はすべて回収してきた。
それとKさんの髪飾りは先週健康友の会経由で作品は作者の手元に帰ったようで安心した。
 窯から買った陶器類はほぼ全滅・・たいへんな損失だが仕方ない。
 借りた作品に被害がなかったのは幸いだった。
下界に帰ってきて少し安心して梅酒を飲む。ほろ酔い気分に地震情報、阿蘇でまた震度4か。

今日は阿蘇は揺れの多い日だ。これが何度も続くことによる火山活動に影響ないこと祈る。
揺れに加えて火山噴火などあれば、復旧は足止めされる。そうならないための頼みの「阿蘇神社」も倒壊してしまっている。どこに祈ればいいのやら。 
  山奥だが忘れずに行政はちゃんと見に来てくれていた。右奥駐車場側の2つの鉄筋の土台になるコンクリートの一部破壊が要注意事項だ。それと瓦の落下。
 山の亀裂が解決したらここの工事を早急に頼もうと思うが待ち時間が長くなると困りもの。水道と同じ頃の復旧になるのかな。(でも交通インフラ解決するまでもしかしたら数年かも・・再建の意欲がまだ残っているのだろうか?)

<要注意部分>
手前の乗っかりとX状固定具のブロック破壊
考えられない力が加わったようだ。
 
 





<5月5日は>
どうでもいいことだが、5月5日の今日は34年目の結婚記念日らしい。知らぬ間にこんなに長く・・。おかげさまで食いっぱぐれることなく生きてこれたことに感謝!。まだ食べてない物いっぱいあるのでまだまだ人生終われない。
5月4日(水)   朝から風が強い。晴天なのだが風の音がやかましい。揺れが少しずつ弱くなったと話していたが、今日は熊本地方で震度4が三回もきた。(震央は3つとも異なるが)、ゴーと言う音のあとに来る揺れを体に感じる地震は嫌なものだ。もう飽きてしまった。母に特養で会ったあとに宇城の実家の片付けをしていた2時間の間に2回も揺れた。いかに揺れが少ないと言ってもやはりいくつかは机や本棚から落っこちる。前回来たときには気にならなかったワイングラスが落ちて割れていた。(小川の実家2階にて)
 写真を見ると比較的に揺れが少なかったようだが、ガラスはちゃんと割れて物は散乱している。一人前の被災地である。妻は1階で片付け物をしていたが、いろんなものを発見したようだ。私は近くで父のアルバムを発見。じっと見入っていた。
 当たり前だが若い頃がやっぱりあったんだ。職場旅行での別府の写真あり。母が抱く子どもの写真、父が抱く子どもの写真・・てことは我々の60年以上も前の写真。白黒写真だが、それほど古びていない。普通はセピア色になるのだが、昔は十分な定着をしていたのだろう。そんな写真は父のもので私のものでないと思い、再び倒れそうなタンスの上に戻してきた。一緒に倒れ、そのまま朽ちるのも自然かなと思うのだ。我が家に持ち帰る余裕はない。山小屋の疎開物
でいっぱいになってきたから。
 震災後/梅雨間近/皆混乱渦中/

自然に操られる人間どもと全く関係なく咲きたい所で咲くアザミ。鮮やかだ。

人は自然と関係ないところに住みながら、自然に惹かれる。でも住んでいる場所が今は便利でも活断層の上なのかもしれない。それも自然の真上なのだから仕方ない・・人間は自然から逃れようがないのだ。

 川口君の作品はどうしょうか。彼宛てに送るか、再開まで保存するか・・明日決めよう!・・・・明日も天気の様子 山小屋の仲間を救済にいこう。

今日も寝る前に訳わからないことを呟くXipociであった。
 5月3日(火)  さきほど老猫チャメへの救援物資到着 奥田さんありがとうございました。 至れり尽くせりの配慮、猫に特化したいろんな中身に驚いています。今日は雨、外に出ることが出来ない老猫は、朝から起きろと私たちの近くに来て、手で顔を触りまくり時々爪が痛くて叱ります。
 知らんぷりの方が多かったのに、この揺れが続くこの間、人間の足下に寄り添うことが多くなりました。1回目の地震では大騒ぎして行方不明に一時なりました。それが気が掛かりになり、下山して難を逃れたので・・そう人間を行動させた老猫を大事にしない訳にはいけません。午後2時とても風雨が強くなりました。ブルーシートが心配です。 

昨日 西原村の山小屋を片付けたあと、茶摘みと山椒の葉を取った。
その山椒で山椒味噌を造ったが、なかなか美味しい。ご飯が楽しくなりそうだ。




趣味の無線も再開して、2階の自分の部屋では短波とVHFをいつも聴いている。
 この数日でEスポもでており、21Mhzも22時前も関東、沖縄の局が聞こえるのは珍しい。夏のコンディションになってしまたのかな。ついこの前まで夜はガラーンとしていたのだが。それと3.5Mhzが国内局が交信していたけど最近は疎らになってきた。もう自然界では夏なのだ。

このまま何事もない静かな日で終わればよいのだが夜中にはまた揺れるのだろうか?
 5月2日(月)  晴天に誘われて今日も西原村の山小屋の後片付けにいく。片付けに飽きた頃、山道を散策。萌の里の先の道路も通行止め。もちろん手前の大切畑の道路も完全に通行不可能。その先の道路には中央白線から段差ができていて車は通れそうもない。 この先は俵山トンネル方向へ続く。

 山には亀裂が幾つか走っているが、これは深層崩壊に繋がり、・・小高い草原には横に亀裂が走っている。こりゃ やばいぞ ずるって表皮がむけたら表層崩壊に繋がるのか、地学素人には訳分からないが山、道路、池、建物、全てに亀裂が入っている大地震がこの地であったことを示す造形だ。明日は雨が降る・・・しばらく近づけない。様子を遠くから眺めるしかない。うまく亀裂が固まって、予想を裏切ってほしいものだ。   (いずれも2016年5月2日 萌の里周囲での撮影)

←遠景と近景 →
 <大地震 内側の風景>
西原村の山小屋の2階食堂。左右の棚がテーブルに向かって倒れ込む。
食器は全て倒れてガラス戸を破って出ている。割れたガラスが部屋中に散乱していた。

自然は相変わらず順繰りにまわっていることを感じた。

自然はスゴイ!!昨日は目立たなかった柚子の花がいっぱい咲いているのが目に飛び込んできた。

・・毎日 西原村までの往復はつらい。市内は混み合うし、西原村にはいると道路がデコボコになる。風の里キャンプ場の前を通る裏道は狭く、対向車があるとドキドキだ。路肩はすぱっと-切れ込んで転倒しそうな場所も数カ所あって、逆に山側には岩が崩れ落ちそうな所もあった。
 内も外も大地震のあとは心配なことばかりだ。存在するのか無くなるのか・・
今はその瀬戸際だ。 秋の柚子は手に出来るものやら。
 5月1日(日)  
 5月1日、普通の単発地震であれば2週間も過ぎると世間も忘れてしまいそうなのだが、この地震,既に震度1以上が1100回とか。スゴイ回数で地盤はガタガタだ。梅雨が怖い。先のことはまだ視野に入らないが、今日は山小屋の瓦の上にブルーシート被せがほぼ完了。今後風で飛ばないかが心配だが晴天の日に監視を続けることにする.。

 <長期の目標>
 季節単位で山の落ち着きと道路などのインフラの状況を見ながら山小屋を再開したい気持ちだ。今日も一軒下のHさん夫妻と東京にいる娘さんも心配して自宅に帰っておられ家の後片付けをされていた。元気そうでよかった。市内萩原のアパートにしばらく暮らされる様子。震度7が襲った時のお二人の具体的な避難の状況(逃げだそうにも襖やドアがあかなかったり)を聴いて、たいへんな思いされたとのこと。それでも やっぱりこの森の自宅に帰る意思が十分。「いつかまた戻れるときにはまた水を一緒に引きましょう」と言いながらおいとました。
 <当面の目標>山小屋の片付けも当面は電気だけで用事を済ませなければならない。屋根の事をしばらく考えることをやめて、天候がよい時だけ必要最小限の短時間滞在を目標としてしばらくは後始末に通うことになろう。

<西原村袴野地区の塩井社湧水は滾滾と水湧く>
4月28日の熊日に塩井社湧水枯渇と掲載されていて、地名を見ると南阿蘇だった。どうやら阿蘇周辺では湧き水と塩井社神社が湧水と連動しているらしく、ここ袴野の湧水が消えた訳でなかった。透明で冷たい水も健在だ。あふれる水の流れに子ども達が足をつけて遊んでいた。私も自宅でコーヒーをいれるために湧水を小さなタンクに貯めた。娘が名古屋に旅立つので早めに熊本市内に帰ることにした。
 こんな西原村袴野の現実をみて安心。きっと地域は復活するだろう。震災の最中にニュースに流れた大切畑ダムは水は少しだけある程度、既に農業用水ため池の役割を果たしていないのだろう。断層の上にある全ての建造物が壊されたこの震災が大震災でないはずがない。

(写真は溢れる西原村 袴野地区の塩井社湧水)
 <ストレス解消は普段の趣味で>

平常心を保とうと普段やっていることを生活に取り入れた。19時30分、50.304MHzでは VK6RSXの電信によるビーコンがあって今日は強く聞こえていてEスポが出ている。このビーコンは同じ事が連続的に送信されている vk6rsx dampirog89t-の音を聞くが実際にオーストラリアのハムの声は聞こえない。この季節から50MHzで海外とか北海道とかの交信が可能になる。そのずっと下50.130~.140MHZでは台湾のアマチュア無線局の呼び出しが聞こえ、コールするとすぐ返事があった。Eスポはコンディションが変わりやすく信号強度の交換をしただけだ。これが震災後初めての交信だった。
趣味の間は平常心が保たれる。
明日も誰かと交信しよう。
ローバンドは、ノイズは昨日より少ないがやはり多め。

(写真は5月1日の大切畑ダム)
4月30日(土)  今日も晴天、昨日の屋根上作業で頑張ったせいか、足腰が痛い。ホントに体力が低下していることを感じる。立っていると座りたいし、長く座っていると横になりたいと体が要求する。このままじゃ長期戦に絶えられないぞ!と活を入れながらHPに綴っている。(揺れを忘れて没頭しているので救われる)
 先日小川の無人の実家に地震被害の様子を見に行ったおり、父の日記を2冊記念に取り出してきた。ちょうど父が私の年齢の頃の日記だ。几帳面に綴ってある。妻が出張の時、私の子ども(長女)を預けに行ったことや、次女が生まれる前後のことが鮮やかに思い出される。子どもに見せる積もりで書いてある分けでもなく。備忘録のような個人記録なのだが。数行と字数の限られた中に生活の記録が詰まっている。日記の間に家計簿もはさまっている、30年前のことをそっくり私がやっている。ただ孫の世話は父の行動の足下にも及ばない。私よりずっと元気で計画的だったことが偲ばれる。孫もいて娘2人揃い久しぶりの朝を迎え今日は妻の誕生日、自分で赤飯のインスタントをチーンして皆に分けていた。あと30年後、娘たちもこんなに揺れていた4月のことを覚えているだろうか。明日長女は名古屋へ向かう。昼間 誕生祝いのショートケーキを娘たちが買ってきたのでローソクを立てて皆で祝いあった。老猫もケーキが大好きでお祝いに加わり、日常に少し近づく。

<写真は本日発見した木蓮の花>
 青空に映える木蓮の花。眼下の地割ればかり気にして自宅の花を見上げることもなかったが、何度もの揺れに耐えているアンテナを点検していて、その手前に赤みが深い木蓮の花が飛び込んできた。
花が鮮やかで葉っぱも緑が綺麗だ。揺れさえ収まれば普通の春景色なのだが、今年は存分に春を楽しめない断層の上を意識する制限下。
 父の30年前の日記

 孫の面倒をみに水俣往復していた父母の暮らしがよく分かる。
1984年、5年の2年分だけ持ち帰ってきた。まさかそれを震災を機に気づいた子に私的日記を見られているとは天国で苦笑いしているかもしれない。

 寝転んで見る。
活断層の上に暮らしている心配は一言もなく、台風や大雨の心配ばかりが綴られていた。あの頃はそんなこと知らなくて済んだ時代だったのだ。
知りすぎた私たちは、次はどこに住んで良いのか(未知の活断層もあって)
見当がつかない。
 4月29日(金) 今日は晴天、昨日までの雨が止み、 西原村の山小屋が気に掛かる。早く屋根にシートをかぶせておかないという想いが強い。今しかチャンスがないと奮い立つ。明日を予定していたが山で一緒に暮らしたすべてがこのまま朽ちるのは可哀想。朝から準備にかかるがなかなか進まない。  現場まで行けるかどうかも分からないがあがいてみることにする。体力が落ちてしまった。少し動くと休みたくなる。大丈夫かな。午後に出発 帰ったらこのページ書き換えするか。

と書いて、西原に行ってきた。ブルーシートの長さ36m 長いので準備が大変だった。左右の土嚢も必要。スルスルとナイロンテープを地上に降ろして妻に結わえてもらった。その土嚢と結わえたナイロンロープを切って(だから段々短くなる)それをブルーシートの穴やにわか作りの引っかけコーナーに結んで出来上がる。全て自己流だから何日持つやら分からない。
2階の屋根から落ちると天国は間違いない。揺れが来ない間にとこころはやる。でも一度立ち上がるとなんとかなるものだ。怖さも半分になって移動出来た。「どうにでもなれ」という心境だった。下では近くの民宿のひろせさんの親類の女性の方が来て地震話に花が咲いていた。「庭の岩が落ちた」と騒いで手伝おうとすると邪魔になると言われたらしく、そんな会話がとりとめもなく続く。未曾有の熊本地震の渦中でも肥後の女性は明るいし強い。18時30分まで屋根の上で作業を続けた。日が沈み、まだ少し修理箇所を残して降りた。帰り道は疲れと充実感に満ちていた。

この日記を書いてる29日23時26分か・・今 大きな揺れがきた。近くだろうか???震度4以上だな。と倒していたTVで確認してみると・・震度3とテロップが流れている。23時27分:目測あやまりかなあ??マグニチュード3.9かたいしたことないなあ でもよく揺れた。今夜の揺れはこれで終わりにしてほしい。

*写真は西原村の山小屋に咲く震災薔薇(長谷川櫂さんが送ってくれたドイツの薔薇:震災瓦が赤く後ろで引き立てる)
  人生、勇気を出せばなんとかなるものだ。怖い怖いでは何も進まない。

 ただこんな高い所に上るというアホな事は自分自身で責任を取らなければならない。だから他人には強制できない。こんな馬鹿がいたという話である。 

屋根に上っている間には揺れが一度も来なかったのはまさに幸運だった。

 まだこんな勇気があったということだけは、少しだけ自分に自信がついた1日だった。帰ってから風呂にはいりビールが美味しかった。震災片付けすまないXipociだった。。
 4月28日(木)  今日は揺れが多い。震度4と熊本西区の揺れが目立つ。15時台には震源が有明海で、対岸の島原も揺れている。布田断層の端っこだろうか。南(八代)も西も北西(阿蘇)も揺れ続ける。かってない経験をしている我々熊本人だ。収まるのはまだまだ先なのか。

 <MICE断念、予算組み直せ>
4月23日夜に熊日新聞の「ひろば」に投稿した記事が4月28日に載っていることを早朝のメールで知った。近くのコンビニで手に入れて読んでみた。ただ1カ所誤りがある。私の年齢が一歳若返っているのだ。1年前の基本事項(住所、氏名、年齢、職業)をコピー・ペーストして若作りしたまま気づかずに送信してしまった。恥ずかしく申し訳ない。

 <気分転換>
嘉島の床屋に行って気分を変えた。久しぶりに頭をリフレッシュした。その足で歩師奇屋を訪問、久しぶりに安藤さんと対面。さすが2つの建物の倒壊には参っておられる様子。みんなの会話や笑い声が建物の中から聞こえてくるような気がした。昔からの会員の多くがお世話になった思い出の場所だ。

 <本に集中出来ない日々を暮らす>
城南の市立図書館から借りていた本(地震前から借りているが開館してるかわからないのでまだ手元にある)を読んでいるが、なかなか先に進まない、「オケ老人」荒木源 作。やや面白いがちょっと複雑だ。数学教師がある日、オーケストラの指揮者になる。ゴチャゴチャに事態は進むのだが・・ロシアのスパイが出てきたり。まあ奇想天外の・・まさに私にぴったりの物語。・・でも進まない。揺れのゆききの合間、あと残り50Pが行ったり来たり、、その間に他のこと(風呂に水だめなど)していて続きを読むのを忘れていたり、計6冊借りたのに地震騒動でさっぱり進まない。「歪」という題の堂場瞬一の小説を借りていたがこの地震の一連をなんとなく連想してしまうので読もうという気持ちもないまま放ってある。中身は全然違う話だと思うのだが、心理的に手に取りたくないものってあるようだ。

 今は気力と体力が欲しい。迷わない決断力もだ。空を見上げると巨大な地震雲に見えて不安になるし、公園の亀裂は収まるどころかその間隙を広くしている、2週間も過ぎても元に戻る気配が見えない。思い込みかなあ。今日は既に公園は子ども達の遊び場になっていて、屋外避難の車はなかった。
 電気や水が回復したからと言って地震が来ないことが約束されている訳はないが、皆明るい蛍光灯の下で日常を取り戻そうという気持ちがあって自宅暮らしを再開したのに過ぎない。ちなみに今夜の ニュースでも気象庁の係は「震度6弱程度起きる可能性があるから用心しろ」と言っているではないか。それもそれが最低でないのは暗黙の了解。

 今日の地震は震度4が3回、熊本西区と宇城市の名前がテロップで流れることが多い。宇城といえば先週も内田と竹崎地区の崖崩壊に注意を喚起していたが、なおも持ちこたえている。頑張れ!
 熊日4/28
4月27日(水)   今朝から雨が続く、濡れる山小屋の木材にまとわりつく雨水が気に掛かる。「俵山トンネル崩落」の記事を目にして茫然自失になった。この様子では、周囲の回復は数年では無理だと実感した。袴野集落の皆さんの気持ちを考えると悲しい気分になってきた。災害復旧は出来るのだろうか。萌の里や山田牧場の賑わいはもう帰ってこないのだろうか・・そして私の山小屋の復旧は・・記事を眺めながらやや諦め気味だが、一緒にこれまで頑張ってきた展示場や喫茶コーナーや2階の生活コーナーがただただ水に濡れて朽ちるのはいやだ。だから水漏れ対策について今週の天気予報を検討した。明日木曜は雨の確率高い、あさって金と土と日が天気がよくなる・・30日の土曜日がブルーシート狙い目かもしれない。果たして車を横付けできるか、崩落は起きないか?など次々にシナリオが浮かぶ。
 そんなことを思っているとプロパン業者から電話があった。今、山小屋にいるらしい。倒れたプロパンを撤去してよいか、早急に使うなら元に戻しておくがという連絡だ。当面使用しないつもりなので、危ないので持ち帰ってほしいことを伝えた。これで水とガスのライフラインは消えた。いや 安全が一つ増えたと考えよう。・・ということは車ルートはまだ生きているはずだ。今ならまだ近づける。この数日で天候が早急に回復しますように、と形だけ祈っておこう。

 朝、元職場に寄ってみたら、全国からの支援の医師も来ており、オンコールで済んでいたのが、当直に変更したらしい。当直し、そのまま朝仕事をして昼から時間取れたら帰る。帰れなかったらそのまま勤務という。ハードな日々らしい。二年退職が遅れたら私もそんな勤務をしていたはずだ。この震災のあとの医療現場は体力勝負だ。震災医療は若者に任せるしかない。頑張れ!

 昼前から心配だった八代へ身重の娘を迎えに行った。ルートをどう取ろうと迷った三号線は混み合うのが常だった、だが嘉島JCから八代ICが開通したことで今日は空いているかと掛けてみた。選択は正解だった。ガラガラで高速なみ。停車するのは信号待ちだけ。久しぶりに孫と娘を後ろに乗せて、どちらが揺れないのか分からないけど、昼間も人がいて安心する熊本南区に連れ去ることにした。こちらはあとでしか善し悪しは分からないが目の前の直感で判断するしかない。

 八代からの救出劇のあとは・・暇が出来たので・・ 2階の私の部屋でアマチュア無線バンドの144MHZの交信を聴いていると白川近くを通っているモービル局からは、上空で豪雨が降っているらしい。かたや南区の局は全く雨を感じないで、そんなに違うのかとのんびり口調だ。震災も距離を離れるとこんな気分か。当事者の困難は被害を受けていない一方には分からないのだ。震災以降、まだ声を出す気にはならない。空の様子を見ながら他人の会話を聞いているのは心地よい。
 
今日FaceBookを眺めていて 俵山トンネル崩落 の記事:紹介先のリンク先(日経コンストラクション>ニュースとコラム)を読んだらギャラリーカフェあすーる(AZUL)周辺の様子がよく分かった。もう無理かもしれない、でもまだ捨てることはできなアンビバレンツな心情でもだえる 2016年4月27日のXipoci だった。
 
・熊本シニアネットではメーリングによる安否確認が始まった。それぞれの震災体験、建物の様子、避難の状況が読める。
(写真右:娘たちに昼ご飯食べさせる時間を取るために私は久しぶりに宮原の喫茶店で珈琲タイムを取った。優雅な一時だった)
 
  









写真左:命の恩人 老猫チャメ
毎日の人命救助で疲れるのか朝からよく寝ている
4月26日(火)   今日は妻の母の一周忌で山鹿に行ってきた。五十七号線東バイパスは相変わらず混み合っていた。そのまま北上すると間に合わないので空港線を経由大津から菊池に抜けるルートをとった。まだまだ段差だらけだ。時間は余裕を持って二時間前にスタートしたのに、約束の時間に辛うじて間に合った。日々混雑が増えているような気がする。今週中にでも高速道路も全線開通するというがそれが出来ると少しは東バイパスも北バイパスも楽に走れるようになる。それまでは高速が使えないので交通量が国道に集中してしまう。ただ工事も突貫工事では心配だ。ホントに大丈夫かな。

シニアネットのメーリングで歩師奇屋の倒壊の情報が流れていた。16年以上前に出来たてホヤホヤのKSN(熊本シニアネット)PC教室は喫茶店を転々としていた。 それを見かねて持ち主の安藤實奈子さんが・・「うちにきたら」という言葉に甘えて本部機能を移したのが発展の根拠になった。 PC教室やお助け塾や執行委員会の会議をしたり、料理教室、年一回の総会に合わせての活動報告集づくりに皆が集っていたあのお家がこの熊本地震で崩壊したとは。。 地面の中の鬼がつくづく憎らしい。  関連文書はこちらにある。

 この震災では被害の多かった益城サロンも当面中止との報告も入ってきた。そして私の担当の俵山サロンは消滅の可能性もあって熊本地震の影響は私たちのKSNの活動やサロン活動をメッチャメチャにしてくれた。おのれ地底の鬼どもめ!!地球から出ていけ!!
       
    <写真は前回の俵山サロンのある私の山小屋でのワルツコンサートの様子>
 
   高齢者だってIT革命
嘉島町の歩師奇屋がシニアの拠り所になったの は2000年8月1日のこと。それまで根なし草 で集まっていた仲間がやっと一同に集える場所が できました。2000年10月28日熊日夕刊1 0面にはここを会場にオフ会風景が楽しそうに報 告されています。
4月25日(月)   今日は4月25日 サラリーマンだった頃は給料日だった。だが今は何の日でもない。震災の後の嬉しくもない雨の日というだけだろう。昨日は高知から妻の知人から震災見舞いの荷物が届いた。水が一番の重量を占めているが、これなくてはサバイバルできない。他の食品は保存がきく、南海トラフ大地震を想定して、こんな備蓄を日々されているのかもしれない。おとといの宮崎からの差し入れもありがたかったが、同じく南海トラフで大変な被害が想定されている場所。生きてる間は起きて欲しくない。ところで今朝も真夜中に震度4の揺れがきてやはり
あまり眠れず、昼間起きてる時に消化してくれたら助かると人間どもは思うのだが通じないなあ。

 トカラ列島で連続して地震が起きているが、この地震も何か熊本地震に触発されたものだろうか?よく分からないが昨年11月には、この地でマグニチュード6の地震が起こって熊本南区も震度4を観察している様子。ここで更なる強い揺れが起きたらば津波も加わる、そうなると揺れと津波で川内の原発は大丈夫なのだろうか。九州の被災者は口々に心配する。もし原発事故になると、九州はたいへんなことになるが、政府も九電も止めるつもりもない。怖がる人々のことをどう考えているのだろう。責任も取れないのに絶対という言葉は慎んでほしい。
 中部地方でも震度2の地震があったようだ。全国的に地震が活発になってどこにも逃げ場所は既にないようである。

 昨日の北海道補選(衆議院)で私は野党統一候補で、人生の苦労人で社会福祉士の資格を持つ(ことに親近感を持ち)池田真紀さんを心の中で応援した。だが、結果は、政府与党を新任する投票結果。僅差でとても残念だった。次こそ庶民の声が分かってくれる人を議員にしてほしいなあ。
 我が家の前の私道の電柱の足下がグラグラ、小さな亀裂が私道のアスファルトに入っていて、我が家へ倒れてくると屋根や車がやられる。いろんな危険がまだまだ残っている。強い揺れが来ないことを祈る。
4月24日 (日)  震度7の被災地西原村のカフェギャラリーAZUL(あすーる)は毎週週末が私たちの職場だった。訪れるのはほとんど友人や知人ばかり。会って会話することも楽しかった。でもあの揺れを境にして、あすーるは避難区域に。 もしかすると集落ごと消滅の危機にたっている。本日は本来ならワルツのコンサートのはずだったが、それも中止するしかなかった。もう山へ出かけることもしばらくできない。そんな訳で少し絶望感に苛まれ、気分は落ち込んでいた。
 
 妻の実家の山鹿の電気店では地域を元気づけようと、今日1日だけの「とみ」マルシェをやるということだったので、私たちも出品作品を持って参加してきた。友達手作りの帽子も売れた。それで今日だけは震災を頭から放りだして売り子に徹しようと思った。あいにく会場は雨。近所の人が物珍しそうにのぞきにくる。妻の実家なので妻は知り合いと話し込んでいて私が苦手な店番だ。やがて売り子に飽くと、出品店を見てまわった。手相見もあるワンコインとあるので最初100円かなと思ったが、精一杯高くして500円ですかと聞いてみたら・・そうです。七分間みましょうという。コイン五つ500円出して両手を見て貰った。・・・易者が言うことには「体力がない」「手先が不器用」「この先の展望で悩んでいる」ということをずばり当てられてしまった。手を見るより私の貧相な顔をしっかり見られていたような気がする。私は恥ずかしがり屋だから、そんなに女性の易者さんの顔をまともに見ていない。だからどんな顔の女性だったのかよく覚えていないのだ。何しろ若い女性の易者さんということだけしか記憶にない。
 私には八代に9月出産予定の娘がいて、暮らしているところが断層の真上。だからこれからの地震のことが気になってしょうがない。とても現実を直視できないのだ。なんとか避難してほしいのだが、彼の地に仕事を持つ旦那と母子を強制的には引き離すことは出来ない。すべては娘夫婦が決めること。だが私は助言することは躊躇しない。・・・間接的に「神経質過ぎ」「楽観的に乗り越える姿勢」「陽気な人と親密度を増すと良い」との助言・・私の現実的神経質な面は捨てて楽観視していいものやら、さらに私の迷いは深まるばかりだ。・・一言も娘のことは口に出来ず(口に出したら現実になってしまいそうで)・・迷いから抜け出ることはなかった。
 いずれにしても揺れの中で沈黙しているより、昔の日常を取り戻せたようなバザー日和だった。早く熊本市内にもあんな明るい声が響くようになるといいなあ。わずか一時間程度の距離で揺れる地域の人とその暮らしぶりに極端な差を感じるのだった。彼の地の人は普通に明るく陽気だった。

 その他の成果としては・・山鹿で地震から一週間分の新聞をじっくり眺めてきた。櫂からメールがあった水曜日の熊日も探し出した。その名文「くまモンがんばれ」も確認した。 「くまモンがんばれ タンポポの花笑つてる」で締められ・・彼も遠くからふるさとを言葉で励ましている。
 村落避難地域にある西原村のあすーるの庭に送って貰った薔薇が咲いたら写真を送ると約束したので、いつかは実現させたい。・・それが希望なのだが。
 
本文は長谷川櫂のオフィシャルサイトにあります。


i-phone
で撮影するも 全体がはいらない。(手にもった新聞の風景と思ってください)こんな風な記事(ほんとは読めるのですが上が切れているし著作権もあってわざと読めなくしてます)・・でも励ましはみんなに読んでほしくて 4/20熊日 家にあれば読んでください。
4月23日(土)   あれから一週間、時々弱い揺れを感じるが2,3日前より少ない、静かになった感じで、今日は久しぶりに嘉島クレアの様子を覗いてきた。書店が目的だったが閉まっていた。食料品コーナーと電化製品のコーナーなど1Fフロアーの一部だけの営業だ。でも空いていることで安心感が得られるのは確かだ。いつものあの場所が開いているというだけでもよい。コンビニは大体開いてきた。以上は心理的安定が少し増してきた報告(=日常に一歩戻ったような気分)
だが安心してはいけない。
 プラスだけでなく、水を差す話だが現実に今考えなければならないものがいくつかある。それは目に見えない場所の亀裂だ。
 今日加勢川を眺めたら雨なのに水量が極端に減っていること。水前寺の湧き水も8割ほど少ない。つまり熊本の代表的な湧水場所に水が届いていないことが問題だ。その分、折れ曲がった場所に水が蓄えられつつあるのではないか。それが過剰になると思わぬ場所から地層崩壊(斜面崩壊 地なだれ)につながるのではないか・・・と素人ながら心配している。大きいのが一揺れ起こればその可能性が増す。
 今が安全な場所でもその時が安全かは分からない。一番有効なのは家を捨て遠い所にいくことだろうが、簡単に町や家を捨てることはできない。でもまだ若い子ども達はどこか安全な場所に移せたらいいな。ここ最近の河川、山肌の亀裂、それとこの地下水問題が解決するまで一時的避難が必要なのかも。熊本の復興の担い手まで犠牲にする訳にいかない。まずは危ない避難所から より安全な場所への性急な避難が大切だ。私もそう書きながらも我が家と運命を共にするのだろう。
揺れが少ないために考え過ぎたか少し不安な23日のXipociだった。 
M様 宮崎から支援物資ありがとうございました。ちゃんと荷物が届きました。そちらも南海トラフでは高い津波や揺れが予想されていて、たぶんこのような準備をいつもされているのでしょうね。たいへんありがとうございました。中にワンカップ芋焼酎もあって、心細いときに勇気づけてくれますね。南海トラフ封印できるように九州山脈西側にて祈ってます。       (写真は嘉島町)
4月22日(金) 

先ほど東バイパス斎藤橋の下り車線真ん中の橋の手前接合部がグラグラと間隔が開いて工事中。市民病院前からの三車線が橋手前で急に左右二車線になりますので江津湖近くも要注意です。昨日は気づかなかったのに、あちこちのインフラのガタガタが見えてきました。
緑川の堤防決壊の可能性も騒がれ始めています。近くの堤防兼道路も通行止めになってました。この震災で怪我人多数なのに頼りの公的病院の倒壊恐れなども参ります。熊本市民病院が外来、病棟受け入れが不可能とか。八代市立病院も似た状況に対し私的病院が頑張らなければこの状況を乗り越えれないこと。私達の税金はどこに使われているのか、ハッキリ市民のために予算組み直して欲しいなあ。まだまだ 色んな面でこれから不具合がでるのでしょうね。(今日のFACE BOOKから)Xipoci 午後一時半のつぶやき

 左の写真は地震直後16日の我が家から30mほどの道路の亀裂・そして右は22日本日の同箇所。インフラの回復とともに次第に不具合がみえてきた。道路に段差が出来て水道管が破れたのだろう断水が解消した途端に水漏れが発生。
水道局に連絡してあるらしいが、まだ補修できてない。漏水が続くと地下に水が浸透してこの田園団地の住宅全体が液状化するのが心配だ。知ってしまったからには何かしなければと水道局にメールをした。

道路の下にはいろんな大事なものが埋まっている。下水、上水、ガス管、時には電灯線・・そんなことを考えると地震の復旧は大変だ。大阪など他県から支援に入っている模様。今日健康友の会には他県からの支援が入って会員名簿を元に安否確認に入っていた。不足したものはないかと、電話確認する事務局職員、地震はあらゆるところが忙しい。被災者支援はありがたいものだ。私も会員宅地図落としに一時間だけ頑張ってきた。・・震災まだ一週間満たずの4月22日の Xipociだった。
亀裂

この地震の破壊力は凄い。道路のあちこちに傷跡を残している。その上揺れる度に傷を拡げている。だから大河川の堤防補修をやらないと、次はあちらこちら解決策の無い水攻めにあう。技術者と資材を早急に集めないとたいへんなことなる。オリンピックどころじゃない。

 2016年4月22日 熊本市南区御幸木部にて撮影
     
4月21日(木)
今日は雨降り、朝から風も強かった。地震と雨という組み合わせは最悪だ。こんなジメジメとした日は避難所での夜や車中泊はつらいだろうな。私のように人見知りで、コミュニケーション能力が劣る人間は集団生活は辛い生活になる。だから最初から自宅で過ごしている。いざとなって屋根がなくなったときに避難所を利用しようかなと考えていた。次第に時間が経つと周囲の人もインフラが回復して家に電灯が灯るとともに自宅生活に変えている。最初の揺れから一週間、今日は体に感じる揺れが少なくなった。昨日の1/3くらいかな。揺れも弱くなって震度3以下、このまま収まって欲しいのだが、そうは問屋も降ろさないだろう。

 この雨が南阿蘇の不明者捜索にストップをかけている。自然は無情だ。TVをつけてニュースを眺めていると、たくさんの支援物資が到着した話は少し安心できた。嘉島のイオンは10円おにぎり、100円弁当などを売っているとFACEBOOKで知らせていた。そして災害につきものといえば、ボランティアだ。動けないお年寄りにとっては頼もしい助っ人になる。
 
 私も2012年7月の白川豪雨災害のボランティアで病院の仲間と参加 (←記事リンク)した。あれから4年、現役を退いて既に参加する体力はない。だから今日は、大きな揺れの時、どこか飛んで行った電話の子機など我が家の中で行方不明の電気製品の捜索に励んだ。結局 子機は棚の下に潰されそうになっていたのを妻が救出した。それまでは二階にある本機を取りに階段を上がるが、途中で切れてしまうことばかりで頭にきていた。なんだと思って一階に降りるとまた電話、そして受話器を取り上げる直前に切れてしまう。その繰り返しからやっと開放される・・目出度し!

そういえばボランティアに参加した龍田の反対側(白川を挟んだ対岸)の下南部の崖が今回の震災で崩壊しそうだ..と、昨日から避難勧告が出ている。気になることに、近所には私の無線友達が住んでいる。少し離れていると言っても万一の時は彼の家も深刻になる。身近な人の話を聞くと、皆怪我がないのは不思議な偶然が重なっている様子、Bさんは地震の少し前、休もうとした直前にベッドへ家具が倒れてきたこと。Sさんは寝ていたが、足下に本棚が倒れていた。でも足が短かったので助かった(^_-)とか。。大なり小なり、不思議な何かに助けられているようだ。電話する友達みんな大丈夫だったというが・・それも奇跡に違いない。あの揺れは生きた心地がしなかった。

 ただ気になるのは,今日の水分をたっぷり吸い込んだ土砂が時間とともに住宅に押し寄せる姿が脳裏に浮かぶ・・揺れも雨も、もう勘弁してほしい。地震前の普通の生活感覚を取り戻したくて無線のスイッチを入れてみた。声を出すつもりはない。無線機の音を聴くことで平常心を取り戻せるような気がするのだ。出てくる音は雑音ばかり。地震多発の頃はノイズが多いと本で読んだ事がある。なるほど低い周波数(3,5Mhz )から高い周波数(144Mhz)までノイズだらけだ。岩石が圧縮されて壊れる度にギャアーという声のかわりに電磁波を発しているのだろうか。やっと16時頃から7MHZのローカル局の会話が鮮明に聞こえ出した。ノイズが多いので、まだまだもう一幕があけそうな・・と思う 4月21日のXipoci だった。  (写真は4月20日 山小屋の無線室)
 
 4月20日(水)  2016年4月16日の西原村の震度7揺れの結果: 予定ではこの夜、私が寝るはずだった寝室の様子

タンスが2つ、部屋一杯に倒れている。タンスの開き戸からもう一つの背板に10cmから20cmグサリと食い込んでいる。

私のいつも寝る場所を重ねると頭から足先まですっぽりタンスの下にある。災害の4日後に重さを確認するも一人で起こせない重量。木材が木材に突き刺さっているのをみると、人だったらこれは助からない。これからは部屋の作りに無関心ではいられない。

近くの牛舎なども半壊している。これまでなかったすさまじい地震であったことは外形だけでは分からない。

ああ瓦が飛んでいるという外見の中に酷い震災の傷跡が残っていた。妻の「猫が心配だから今日は帰ろう」という言葉で命拾いしたのだ。
・・留守番猫が人間の行動を制御したのだろうか? 今日はただの老猫で、食事中にテーブルに登っていつものようにご飯を要求していたが・・・

さて過去のことはさておいて、現在進行形の俵山近くの山の亀裂が今日はさらに深刻になっているようにみえる。
明日の揺れと強い雨、もしかしたら集落ごと飲み込まれてしまうのだろうか?



☆大きな地肌が3つ見える。2日前より岩がゴロゴロと流れ出した。本格的な流れの先頭になるのか?テレビでは明日周辺では多量の雨が降るという。35mの風も吹くという。
なんとか持ちこたえて修復できないのだろうかという希望は捨てていない。
もし亀裂が動き出すと集落全体を飲み込む大惨事になるだろう。
警戒警戒 明日は絶対誰も近寄るな!!

阿蘇の自然に相応しい季節に土色の悲劇が起こることなど想像したくもない 4月20日 Xipoci
 
4月19日(火)   今日は92歳になる母の入所している宇城市の特養に地震後の様子が心配で訪問した。対応の職員さんも地震の話題ばかり、小野部田小学校付近からが被害がひどいと聴いた。小川でも倒壊家屋があるとのこと。誰も住まない実家が気になってきた。どうせ倒れているだろうから。・・と予想しながら向かうが、到着いてみると、予想に反して草ばかりの庭に、ちゃんと無傷で建っている。代わりに実家の上にある新築の二つの家の屋根にはブルーシートがかぶせてあったことにさらに驚いた。・・でも、どうせ部屋は滅茶苦茶かなと思って中にはいると。棚も椅子もまったく倒れていない。・・時間が止まっているような不思議な空間・・

そんな安全な空間のはずなのに・・・風通ししているうちに少し不安になってきた。今大きな揺れがおきたらどうしょうもないぞ、閉じ込められて出られなくなるかも という気がして 必要な荷物を入れて実家を後にすることにした。豊野を進んでるときに積んだ荷物の確認をすると肝心の荷物がないことに気づき、再び実家へい戻ろうと舵を切り直した。その直後に、松橋の内田地区で斜面決壊の恐れという災害情報が流れた。この震災は県下一円に悪い爪痕ばかりを残している。・・やがて実家に到着、玄関に忘れていた荷物を確認して家を出ようとすると今度は本物の大きな揺れが来た。下から突き上げるような揺れだったと妻は言っていたが、八代で震度5強だとラジオはアナウンスしていた。強い揺れは段々南へ移動してきている様子。娘の居る八代が心配になってきた。
その後のニュースで、この地震のあと八代市立病院が倒壊の恐れとのこと。・・一昨日は熊本市民病院も倒壊の恐れと患者さんを他院に手配しているニュースが流れていたが何より充実させなければならない緊急時稼働の中心となるはずの公的病院の耐震工事を後回しにして商業施設やら会議施設に多額の税金を使う市政にこんな現実がおきることを一切考えず、市民の生命や生活を後回しにする議員や市長の責任は特に重いと感じる。それに震災便乗の値上げ、ブルーシート一枚8000円もするとは平常時の二倍以上かも。他の必要物も高い。それこそ庶民にとって必要なものを行政が買い上げて再分配できるように市民の負担を少なくしなければ我々震災被災者はこれから暮らしていけない。--------

小川の実家への途上、被害の少ないお店で仕事中の同級生のチイちゃんに会った。立ち話では、小川を西から東を1としそれを当分に三つにわけ、その真ん中は比較的揺れが少なかった地域(分かり易く私の言葉に代えた)だという。中は岩盤が強いのだろうか?と首を傾げながら話す。

写真は小川の実家。草ボウボウだが家はまだ倒れてはいない。瓦を近くでみてもズレていない。
テーブルのお茶は前回訪問したときのお茶。。2つの大きなペットボトルはそのままだ、(2つの小さなお茶は今回持参したもの)・・この写真は演出ではない。それだけこの空間の揺れが少なかったのかもしれない。・・・という別世界を感じるような不思議な光景の 4月19日だった Xipoci 
 
 2016年4月18日(月)

私の山小屋は農業用溜池 大切畑ダムのある阿蘇郡西原村小森、袴野部落、ここはずっと手前から通行止めになっていた。大阪府警から支援で来ていた地理にも不慣れな若い警察官に「この先の小森袴野地区に行きたい」と言うも、熊本弁が聞き取れないらしく大阪弁で「直進は出来ない」「バックしてセブンイレブンから左折して南阿蘇方面に行ける」・・ここで押し問答してもしょうがなく「はい」と答えて、引き返し、なんとか裏道で進もうと探す。偶然 前の車が一台方角なら合っているのにつられて曲がった、この道沿いの家もほぼ屋根の瓦がなかったり、家の一部が転がってたり、傾いていたりしていた。 

小径を曲がりくねっていくと、地元の消防団員が一台一台車を止めてどこへいくか確認していた。行きたい方向を伝えると風の里キャンプ場まで行けるらしい、その入り口には知り合いの別荘もある。そこで車を止めて、リュックを背負って徒歩で二十分歩きながら被害の様子を確認した。

大きな石垣の岩がゴロゴロ転がって、道路も亀裂が入っていた。湧き水が豊富な集落なので、水の音がやがて耳に入ってきた。

 普段なら心地よい音なのに、震災の真っ只中では、空を飛ぶヘリコプターと同じ雑音にしか聞こえない。すでに興味は我が山小屋に心が占められていた。・・大きく損傷した家、それほど目立たない家もあって、家に近づくにつれ、我が山小屋の様子が知りたく私は、より足早になった。妻は春の花に興味を奪われ、ずっと後ろから追いかけてついてくる。 

見慣れた民宿の上をあがると隣のHさんの家、大丈夫そうだ。その隣の白壁の蔵の屋根が少しやられていた。

やがて山小屋の赤い屋根が見えてきて真上屋根頂上の瓦が連続して落ちている。ドキドキして2階玄関に入ると 冷蔵庫を除くとほとんどに棚が倒れていた。玄関前の棚も含めて全て倒れていた。食堂を開けると倒れた棚からグラスの破片や、茶碗の破片が散乱している。

妻は1階の展示物が心配で降りたが、私は屋根が気になり、思い切って屋根裏から瓦の上にそっと足をのせて、屋根の上に上がってみた。勿論グラリ用に命綱をアンテナ固定用の針金に通して片手に持ち、修理を依頼するためにとi-phoneのカメラ機能で全景を撮影。

今グラリと来たら一貫の終わり。一瞬一瞬が「常識と非常識」の闘いだ。妻へ報告すると「こんな時、まさか屋根に登るなんて」と非難された。 

幸い展示場の作品に傷はない。あれほどの揺れでも預かっていた手作りの作品類も大丈夫だった。私が外に出て落ちた瓦を集めていると、牛の世話にきていたYの婆ちゃんが近寄ってきて深刻な話を伝えた。

既にこの地域全部が避難してるらしい。訳を聴くと俵山の方向に二本の亀裂があって、自衛隊のヘリコプターが時々亀裂を確認しに来ているという。もし大きな揺れが来たら集落が飲み込まれるかもしれない、だから集落が危ないので避難したらしい。

婆ちゃんの家の牛小屋も半壊状態で牛を小屋から出して、人気のなくなった集落で一人牛に水と餌を与えに来ていると言う、終わったら避難所に帰るようだ。・・私の頭はパニックになった。

もしかしたら部落ごと土に飲み込まれること・・阿蘇大橋が一瞬に消えたあのすごい土砂の流れが我が山小屋を飲み込む様を想像してクラクラした。想像は深い怯えになった。・・それまでのんびり後片付けしていた妻も手を止めて、帰宅モードに事態は急転。 

最後に2階に戻り、金曜日に泊まる筈だった寝室を開けた・・・そうしたら大きな重いタンスが部屋いっばいに横たわっていた!こりゃ即死だったな。猫に命を救われたようだ。普段は金曜から日曜まで山暮らしだったのに、前日の地震に留守番の猫が怖がっていたので妻が猫が心配というので、(私は夜が明けて様子見に行こうと思っていたのだが)市内に帰ってきて寝息を立てて居た頃不意に大きな本震に襲われた。もしあのまま山に居たらと思うと血の気が引いた。

 

「危険だから、はよここから離れたほうがよかよ」というYさんの声が耳にささり大慌てで帰り支度を急いだ。徒歩なので荷物はそのまま、店用に買っていた冷蔵庫の野菜類をリュックにつめただけで、外に出て初めて自動車の鍵がポケットにないことに気づく。屋根に登るとき落としてはいけないと奥の洋間の机の上に置いていたのだった。また部屋に入るがこのとき初めて恐怖を感じた。 それは、いつ崩れるか分からない亀裂が心の中で拡大し続けていたから。

                                        Xipoci 

亀裂が拡大するのか、・・・地域の方は戻れるのか 今は善良な方が住むこの地域が土砂に飲み込まれないことを祈るだけ。24日のコンサートは地域にみんなが戻れるまで延期ということにした。しばらくは見守るだけしかない。

 

 
 
2016年4月16日(土) 
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                           グラグラ揺れる地球の上で まずは腹ごしらえと携帯コンロでご飯炊いている。電気も水道も真夜中の本震から途切れているのでアウトドア。
 南区の近所では、あちこちのブロック塀が倒れ、道路は亀裂が走る。ご飯炊いたら湯をわかしてお茶とコーヒー飲みたいな。

 夕方から雨が降るという。地震には困ったものだ。あと電池残量45パーセント 返事できないと思います。皆さんの御無事を祈ります。空にはヘリコプター 地には救急車の四月十六日午前8時半。

 
本震の4/16 いつもの私の机周辺はこんなもの。あれ
パソコンのモニターはどこ?よく探すと机の下。いつもこんな感じだから騒ぐこともない。
雨降る前に散歩に出たら、こんな感じ。あらあら公園が騒がしい。今夜車の中で過ごす人達、いつもと同じ訳ない。早く普通の暮らしに戻りたいなあ。
 
道路、コンクリートブロックや墓標は、ほとんど倒壊 人工的産物は地震の揺れで壊れるためにある。  4月16日の散歩道

 
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