2025/06/25水

 ”昔は野良猫”のハナと暮らしてもう五年になるかな。人見知りなのは私そっくり。何事も臆病で、雷さんが近づいたら、どこか音が聞こえにくい場所にまずは隠れてしまう。この世界の人間で慣れているのは爺さんと婆さんだけ。裏口に母猫に連れられてご飯食べにきていたのをたまたま抱っこしたのが縁で我が家の猫になった。相性があったのだろう、夜は爺さんと運動!。「運動するばい」と声を掛けると二階の窓辺の夜警を中断して降りてきて、一階の和室のテーブルの上にごろんと横になる。それを爺さんが撫でるだけのだ。そのテーブルのハナの背中を触ってぐるぐると回る爺さん。運動するのは爺さんだけ。目を開けたり閉じたりし毛繕いして時々、触る手を研いだ鋭い爪が運悪く引っ掻くことも。爺さんは手の裏の皮膚を引き裂かれ赤い血がタラタラと落ちることも。まあそんなことも気にしないで、毎晩 運動するのは爺さんの歩数稼ぎなのに、「運動」のかけ声を楽しく待ちわびるハナである。

 

昨日と比べると少し菊の花も開いてきた様子。もともと花びらが多いので、なかなか開けないのか、開いたらすぐに散るつもりかもしれない。今日の天気は雨という予報だったのに 青空にも出会い、久しぶりの散歩へ出かけた。水たまりを飛び越えて、蒸し暑いが、風も吹いてなんとか中断しないよう、散歩を支えて呉れた。

 時々本屋で雑誌を買う。それは直ぐには読まず、買ったことを忘れた頃に 寝っ転がって、手にして真っ二つにページを開く。そこに書かれていることを読みながら自分の思いと比較してみる。”ALEXA シャンソンかけて”とスマートスピーカーへ呼びかける:ほとんどがフランス語なので、知らない言葉は読書を邪魔しないので都合よい。

イデオロギー俳句と伝統俳句の違いを論じ、同じ575でも ガザの子に生きる道あれクリスマス・・という句をあげ、イデオロギー俳句は浅いという。比べて 折りとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏のようなナンセンスな意味のない俳句を風味があるといい、イデオロギー俳句がなんと見劣りするものかと対比する。政治的スローガンは「言葉の意味」できているのに対して「俳句は風味」で出来ているという。こんな解釈を誰がしてるのかと自らの浅い考えで怒りながら著者をみると櫂さんだった。(俳壇5月号 P96-97)俳句は政治的スローガンや広告のコピーと異なるという。さて世の矛盾を嘆く連中はどうみるだろう・・彼らは逆にイデオロギーなき無意味さを浅いというのだろうか。(^o^) 猫に運動するぞと言いながら実は自分だけが動くような。

庭のグラジオラスの開花は 昨日は一つだったのに、今日は3つに増えていた。

 今宵のNHKでは森友問題を振り返っていた。裁判で森友学園の文書がやっと世間に広がってきた。8億円の土地値引きのための文書も不思議だが、いろんな所で綻びが見えてきたようだ。1年を超えて保有する面会記録は「存在しない」と財務省は掲げ、例えあったとしても無いことに。 国会で「私や妻が関わっていたら・・」と言った当時の総理から始まった事件、それからの財務省文書の改ざん。政治家との関わりの文書の欠落も意図的。・・2017年1月、2月からの日本の政治は何をやってきたのだろう。時の権力者を守るためのことしかやってこなかった。改ざんさせられた真面目な官吏はその罪を嘆いて自死し、当の総理はのちに国葬で天国へ送られた。なんてヘンテコな世の中だ。

爺575は”阿呆な顔 生きている間の 我が芝居

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