社会福祉士 としての唯一の活動 「高齢者の生きがいづくり」

 社会福祉士を登録したのは1998年夜間の学部を終えた年だ。そのまま進学した大学院では医師でもある籏野脩一先生の「高齢者保健福祉論」専攻の初めての学生だった。
 40の時社会福祉学部が熊本で初めて出来て、夜間部もあると新聞で知って未知の世界に飛び込んでみた。・・・昼間は病院で放射線技師の仕事をして5時から夜学へ通う毎日を4年過ごし、さらに修士で2年計六年間 昼間の勤労者と夜の中年大学生という二つの顔を持った。2人の子持ちの父でもあった。二つの顔を使い分けた40才から46才までの間、いつも帰宅は夜10時半頃、それから二度目の夕食を摂った。(一度目の夕食は到着と同時に6時までの間に学食でうどんなど軽食を胃袋に放り込んで教室に駆け込んだ)おかげですっかり肥満体になってしまった。3年生で社会福祉士の必須要件の実習先も自分たちで探すことから始めた。私は自宅近くの特老と交渉してOKを得た。2回目の実習先は宇土市(福祉課)だった。それぞれ2週間の実習だった。予備実習や事前訪問などもあってすべて年休を申請した。特老ではお風呂に入れたり、食事介助、ヘルパーさんと地域訪問、風呂場の掃除もこなした。レクレーションでは苦手な歌も歌わなければならなかった。指導者からは「あなた自身が一緒に楽しまなきゃお年寄りも楽しくないよ」と言われた。見ることやること新鮮だった。宇土市では生活保護のケースワーカーと対象宅をまわった。ソファで縮こまる一人暮らしの高齢者、何か困ったことはないかと声かけして、比較的若い対象者にはそろそろ働けないかと聞いているのをそっと横で眺めていた。昼は隣の社協の一人暮らし宅の弁当配りに同行した。福祉に少し希望をみた。今になって考えるとよくこんな自由が出来たものだと当時の放射線科の同僚と故T技師長に感謝しなければならない。一番の犠牲となった配偶者は文句も言わずに協力者となって中年学生に勉強机を用意してくれるなど配慮に涙((^_-)を出すこともなく)。平日はオンコールを避けて土日に引き受けた。救急受け入れ病院だったので結構呼び出し回数もあった。翌日のゼミの準備などで家庭サービス(ちょうど2人の娘は小中学生時代に重なる)は皆無に近くなってしまった。父の介護が深刻になる頃にやっと学校を離れた。

唯一社会福祉士的な仕事をしたといえば「高齢者の孤独をなくし、生きがいを得る」というネットワークづくりだった高齢化社会と情報化社会をミックスするとシニアネットだったという訳である。各地でシニアネットを作れと2000年仙台での「日本社会福祉士会総会」の社会福祉学会の分科会で発表した。その足でシニアネット仙台を訪問した。そのつながりで仙台の佐藤理事を熊本の第二回総会の講師として呼ぶことになった。それはいまなお日米井戸端会議につながっている。

<福祉的観点>で修士論文を書かなければならないので、高齢者介護におけるストレス評価(デイケアや音楽療法の効果判定)に的をまず絞って最初は被験者ボランティアの高齢者を募り、オシッコで物言わぬ高齢者のストレス計測実験をした。がその行為が被験者にストレスを与えていたようで、途中で中断し方向転換を図った。次には介護保険が2000年に始まるが、その介護から漏れる健康高齢者の問題=生きがいづくりに焦点を定めた。そこで米国で10年前から実践され、日本でも各地で開始されたシニアネットのに焦点を移した、既にシニアネット久留米が1年前から実践していた。中で参与観察をし、その仮想コミュニティの活発さ、実際の交流のありように触発されて、「熊本でも作りましょう」と籏野先生に持ちかけたらあっさりOKされて1999年7月1日から籏野先生を会長としてスタートしたのがこの記事のこと。先生は何でも興味を持たれていた。シニアネット久留米の熊本在住会員の協力もあってスムーズなスタートが出来た。そして2,3年で事務局長の実務から手を引き、以降16年間MLサーバー担当のボランティアを継続中。
 
1999年7月2日熊日:開設当時は高齢者がメールやインターネットなんか出来るのかいなという疑問も多くあったが、それも杞憂に終わった。