夜学の頃 <2度目の青春>  作成中
 中年の危機>
 Xが40才になる直前の年、桜の花が散る頃、友人Mが
黄泉の世界へ連れ去られた。友達の死は周りも精神的に巻き込むのだった。その1年後の夏、さらにXの理解者であった友人Yをも死の世界へ誘われてしまった。同様に車の排ガスを手段とした自死だった。
 色々考えているとやがてX自身不眠になった。色んなサインに気が回らなかったことで自らを責める日々だった。やがてXにも誘いの手が差しのばされたのだろうか。鬱の症状は、まだ二十代の学生だった頃も一度襲われたことがある。眠ろうと焦ればあせるほどあらぬことが思い浮かぶのだ。夜が白み始め、新聞受けに新聞が入る音を聞く頃、浅い眠りに入っていた。確かにXはその頃の仕事に興味を失っていた。
仕事ばかりか自分という人間が嫌になっていた。

 周囲で理不尽なことばかり起こるので、人生がつまらないと思って刹那的なことばかりが浮かび、仕事を終えるとパチンコ屋さんに通い詰める日々が重なった。内心で、これではいけないという思いと、どうにでもなれという相反する気持ちが交互に押し寄せて眠られない夜が続いた。確かにもらい鬱だったのだろう。
 その頃はXはフュージョンというHONDAのバイクに乗っていた。保育園の迎えがあった。バイクは皆が興味を持つ十代の憧れ、Xはそれが30を過ぎての頃だった。仕事を終えて教習所へ通い中型免許を取ったのだ。そうして乗り始めたバイクだった。5時に仕事を終え寄らないつもりが途中のパチンコ屋に寄ってしまう。6時迄の迎えが7時前になることがあった。その時は延長代500円を握りしめていた。娘が馬鹿オヤジの行動を知るよしもなく、残り組にいた部屋から娘は喜んで出てくる。バイクに乗るのを楽しみにしていた。その役割がない日には10時半の蛍の光のメロディが鳴り響くホールを財布を空にした馬鹿オヤジが悔しがりながら店を後にする。そういえば腹減ったなあ。時々家の内側から鎖付きの鍵がかかっている。今日は無事家の中に入れるのかが一番の目前の課題となった。そんな日々にいろんな役目を付託した家族。これがXの中年の危機を救ってくれたのだろう。少し時間を経て「このままではいけない」と上目づかいに世の中を見回し始めた
内に向かうばかりの関心を少しずつ外へ向け始めた。その後事故に遭うまで中年ライダーを数年やってフュージョンを手放した。Xは悶々とした中年の日々がそんな頃、ある出会いをした。

<夜学で福祉を勉強する>

 夜学に行く機会は40歳にして訪れた。勤務先から近い大学に社会福祉学部が新設され、ついでに夜間の社会福祉学科が出来ると新聞広告を目にした。街に出る機会もあって紀伊國屋で願書を手に入れた。これからは介護保険も始まるらしく、その運用の要になるのではないかと思って考えてもみたが・・・しばらくは、仕事もあるしどうしようかとXは悩んだ。でも誰に相談する訳でなく、思い切って試験を受けてみることにした。結構一期生への期待もあって沢山の受験者がいた。小論文と面接があり、試験場では職場の看護師さんと精神科ケースワーカーという顔見知りの女性の2人と出会ってしまった。逃れようもなく、受験がばれてしまった。そして試験発表の日、郵便受けに合格通知。それからやっとXは妻に話し、職場の上司に話すことになった。同じ法人の関係者3人が入学。その日の散歩の足の軽いこと。3月半ば、息を大きく吸ってまだ冷たい空気を吸い込んだ、桜はまだ蕾みの頃だった。先の事を心配しないでもなかった。それぞれ厳しい勤務の後の夜学である。放射線技師で全く畑違いの分野にきたのはXくらいで社会人は看護師とケースワーカーが多く占めていた。18歳の現役学生も半分ほどいた。一緒に授業を受けることが少し心配だった。語学では英語と韓国語とスペイン語をとった。美術を選択したのは現役の男と私の二人、美術の担当教授は福岡から通っていた。土曜日の午後6時からとあって、わずか2人の希望ということで流れそうになったものの、最終的には少なくてもやるということになった。こんな不経済なことをやってくれる大学を私は信頼し始めていた。福祉部の教員は、まじめで情熱的な人が多かった。彼らは殆どがこの学校を土台にして有名大学の教員に横滑りした。
 英語は1科目はFの授業でそれはまるで高校の授業の延長だった。黒板に出て行って課題を解くというもの。もう一つの英語はSの授業で短編小説を限られた400字に要約する授業で、1週間に1通その宿題を提出しなければならなかった。男性の最年長者は50代終わりの会社経営者、熱心な方でいつも真剣に授業を受けられていた。一方社会人女性にはだんだん幾つかのグループが出来上がっていった。スペイン語Ⅰ,Ⅱ,と韓国語Ⅰを 取ったものの授業以外にその言語を使う機会も勉強を続けることもなく単位を取得したあとはすっかり頭の中から消えてしまった。でもその場ではやり過ごすことに必死だった。そういえば手話も点字も1年受講したのに語学同様すっかり忘却の彼方である。何を勉強したのかさえ思い出せない。印象的な科目では受講者3名の外書講読(担当しのちゃん)、児童福祉は丹野喜久子先生、地域福祉などの専門科目。定藤丈弘先生(故人)の地域福祉も印象的だった。交通事故で脊椎損傷になり車椅子を奥様が押しての講義だった。その後定藤生亡き後の森本佳樹先生の集中講義もまだ少し記憶がある。社会福祉原論 岡田武世先生(故人)、障害者福祉は豊島律先生、宮崎俊策先生(故人)の授業も真剣勝負だった。児童福祉関係では「泣くものか」という本を皆で精読した。3年生になると6人で「親子関係がうまくいかず救護院入所となった子ども」を検討し揃って教護院を訪問してまとめて発表したのも懐かしい。福祉の奥は深かった。

 夜間大学を卒業する時点で職場も家庭も少しほっとしていたようだ。だが周囲の運悪いことに卒業年度に福祉の大学院が出来ることになった。挑戦者Xは、また懲りずに受験した。万一受かったらそのとき相談してみようという無責任さだった。それでプラス2年の夜学生として残ることに。学部を卒業する春に19981月の第十回の社会福祉士国家試験を福岡の西南学院で受けた。この時、きっと学部2年生の時に癌再発で、あの世に旅立ったケースワーカーのOさんの後押しがあったのだろう、叶わなかった願いを私に託したのだろうか、そんな気がする。
 毎日5時迄放射線技師の仕事をして、夜は片手間の大学生で勉強する時間なんて殆どなかったので合格する予定もなかった。でも呉れるものは拒まずの精神、社会福祉士の登録をした。まさかと思っていた院への進学まで決まってそれから職場長に 相談することに。まずはオンコールのことが最大の事情で、土日祭日を専門にやることなどとつまらぬ条件を出しながらも認めてくれた。

 大学院では集中講義で東京や京都の有名な先生が来た。「ナチス研究」の篠塚敏生先生、いくつかのゼミ、家族関係 篠崎先生、経済関係 花田昌宣先生、授業のあとに喫茶店に寄っての意見交流も楽しいものだった。籏野脩一先生の高齢者保健福祉論を選択し先生とは1対1で研究室での問答で論文の構想を錬っていたがあれもこれもとXの自由な発想を先生は受け入れてくれ比較的自由だった記憶がある。1999年、修士2年の時、修論の内容を高齢者の生きがいづくりに狙いを定めた。高齢者対象の課題といえば介護問題などにウェイトが置かれるが私はITを活用した方法、高齢社会とIT社会の融合というこの時代にあった方法を思案した。
 学部も院もXは一期生だったが学究的にも冒険心たっぷりの6年間を過ごさせて貰ったが、
それは実際のXの関わる仕事には全く役立てられなかった。 

 
 <あのころ>

夜学には看護師、リハビリ関係、介護関係の職種の人が在籍した。18歳から19歳の子ども達も社会人と現役半々くらいだった。1年では東京からきた皇族似の先生のマスコミのゼミをとった。

2年、3年では児童福祉のゼミをとった。若い仲間と教護院にも出かけレポートをまとめた。1期生なので3年、4年と実習開拓を行ない数週間の実習も必要だったが分割して有給をとって参加した。近くの特老(入浴介助、ヘルパーの訪問も体験)や、宇土市の福祉部(隣の社協の弁当配り、での実習もやった。学校では、まずは学食で定食を食べる。そこから夜の部は始まった。時々は仲間やフランス帰りの先生と大学前の喫茶店でしゃべりこんだりしたが、家に帰ってからも食べるので、ブクブク太る一方だった。

大学院では、下調べがそれぞれの課題があり、フランス帰りの先生の授業は面白かった。潜在能力アプローチの基礎としてよく知られている
Amartya Senの「Commodities and Capabilities」を皆で訳しながら読み合わせをした。この中では “富があってもそれを使えない人”がいるし、“人の幸福は様々だ“など物事の考え方を立体的に議論した。

夜中たまには午前4時頃まで提出物の宿題、午前8時半からは普段の仕事でこれまた忙しい。修士論文も併行して書かなければならず、よくも学部と院の6年間、24時間の間、体が持ったと思うのである。それも職場の理解がなくては出来なかった。

(ナチス研究の篠塚敏生先生の1998年12月10日講義のX自身のノートから引用)
整理して捨て損なって書棚に残っていた篠塚先生の1998年の最後の授業を要約してみよう。

安楽死への批判。精神薄弱者や障害者
1940年12月施設で安楽死が実行されているという情報があった。安楽死は医師サイドで安楽死をさせることに関心を持つ医師が多かったという。何故精神病が出るのか?当時のドイツ医学では患者の死=脳(肉眼的悪化の有無)ストラスブルグ大学の医師は頭蓋骨を集めて脳の研究を行っていた。カイザウィルヘルム研究所のハーラーフェルデンDr(精神病理学者)は大人と子どもの600以上の脳を施設から貰って研究していた。彼は終戦(1945年)以降の1949年においても脳の収集を続けていたという。カイザウィルヘルム研究所は、その後マックス・プランク研究所に改名。
・彼は研究材料としての脳を集めたいために安楽死させられる患者を予約していたという。その研究とは「脳の中の変化をみるため」だった。
その安楽死について市民はどういう態度だったのか・・・・
積極的に住民が騒いだのは 西ドイツ地方の貴族出身のミュンスター司教が有名。
 1941年8月3日 カトリック教会のフォン・ガーレンは、安楽死の実行展開が起こると「問題について当局を非難」した説教を行った。また連合国がドイツ国内にばらまくBBC放送で説教を流した。
この頃1941年6月22日独ソ戦が開始。ソビエトへ軍隊を展開する頃で、国民を分裂させることになるとヒトラーは「安楽死を公的に中止」した。これは1941年8月24日のことだった。
安楽死が中止されたあとの1941-45年に関して・・・・
 
安楽死の全国組織「T4組織」を排除に利用したいとHimmler ハイムリッヒ・ヒムラー
「14f13作戦」「特別処理14f13」では
ⅰ)労働能力のない人(働けない、寝たきり、身体障害者)
ⅱ)反社会的分子(乞食、浮浪者、ジプシー(ユダヤ人)、売春婦、精神病者と2つの対象者をあげた。強制収容所の中でⅰ)ⅱ)の人々がT4組織で安楽死を実施。これは強制収容所の医師の指示でもあった。その方法は注射を使う。ルミナールLuminal液(睡眠剤)、食事を与えない方法(抵抗力を低下させ、肺炎を起こさせ死に至らせる方法をとった。労働能力がある者は生かされたが反社会的分子は精神病患者としてガス室に送られて死へと誘う20世紀最大の犯罪だろう。
このような施設に10万人送られた(内訳 ユダヤ人約1000人、障害を持つ乳幼児 5000人~8000人、労働不能者10000人~20000人という)
 1939年~46年の間ドイツ全体で30万人(施設入所)、終戦後4万人の中で26万人が死亡させられた。
全体では30万人が承認させられた安楽死数ではないか(と篠塚先生は言う)なおユダヤ人の安楽死では精神病院の患者はすべて強制収容所を含めすべて殺された。
戦後ユルングベルグ裁判で安楽死に関わった医師の死刑(処刑)はわずか7人。ブーラー官房長官は戦後捕らわれ自殺。ブラントクは死刑、ハイデ教授は自殺。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーというメモで終わっている。講義の締めくくりには「夜と霧」という映画を鑑賞したことを記憶している。映画だったのか本の熟読だったのか、暗闇に霧が立ちこめているシーンばかりが印象にある。タイトルを意識しすぎたのだろうか・・なにはともあれ、日常から遊離した特殊講義の篠塚先生の語りは今も記憶に張り付く。

社会政策の花田先生の授業から一断面(ミッシェル フーコとロバートボーノとの対談)を題材に福祉を考える内容) これもプリントが残っている。英文を訳し報告して議論する内容
1998年10月16日はXの課題報告だった。

 印象に残るのは社会保障システムのpervers effect についての議論での「自立」autonomyと「依存」dependenceの関係。依存の中のintegrationとmarginalzationのこと。包み込むこと、隅っこに押しやることの関係、そして服従し従わせることsubjected

フーコの考える現在の社会保障での3つの課題
economic obstable(経済的障害)
system mismach(古い制度そのまま)
pervers effect:(特有のメカニズム)certain mechanisms

議論の収束
1)我々の社会保障システムは1946年のものでそれは今経済的な障害に直面している。
2)このシステムは2つの大戦の間に考えられたもの 社会的な矛盾と今日的合理性に限界がある。
3)社会保障そのものの影響(依存の増強と歪められた効果)
1930年代と戦争直後は社会保障の問題は深刻だった。1950年代以降、更に60年代以降は社会保障の考えは自立の問題と結びつけられはじめた。相手がより低い地位にあると意識すれば服従させらるという危険性を覚悟すべきである。「人は自立を考慮に入れること」が「反社会保障」という見方に引きずられる。
 一方「個人の真の自立を保障するという積極的要求」の存在もある。社会保障の論議にはこの自立心の問題を位置づける必要があるのではないか。

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この花田先生の演習では「アマルチア セン」Amarta Senの「福祉の経済学」という「論文を読み合わせて経済と福祉を考える時間も持った。利益、効用などの 個人で異なるFunctionに注目した。面白い内容だった。





昼間仕事して夜学校へ行くなんて昔から憧れていた。二つの世界を同時に生きることが出来たあの活力はどこから来たのだろうか。夜学に行き、勉強は楽しいものだと気づかせてくれた。20年経ても印象に残る40代の第二の大事な青春時代を過ごさせて貰って,職場や家族に感謝しているとXのはなし。
  夜学の思い出