日韓労災交流の想い出                        源進職業病管理財団 理事長 朴賢緒

 


199110月のある日、当時は源進職業病対策協議会議長の職責を持っていた時のことである。“舎堂醫院”付属研究所の朴賛浩さんからの電話があり“先生は日本語が上手でしょう?日本からのお客さんが見えましたので源進の患者さんにご案内をお願いします”と。翌日の朝、約束の“Paleceホテル“に着いたら二人の方が待っていた。

 早速名刺を交わしたら一人は熊本大学医学部の原田正純先生、もう一人は菊陽病院の樺島啓吉先生。20㎞ほどの九里市に向けて運転しながら日本語で喋べりだしたら思ったよりべらべら出たので我ながら驚いた。46年ぶりの日本語使いであったからである。

 前もって知らせていたので待機していた源進患者たちの検診が始まった。私の左に原田先生が、右に樺島先生が座り各々患者さんを問診、触診等しながら病歴や症状などをいちいちメモするのを見て感動した。同時に二人の通訳は出来ないから、右側の通訳で56分以上かかったがそれが終わると今度は左側の通訳というわけで昼食の間を除いて6時間以上のお検診強行軍は終わった。原田先生は翌日まで検診して帰国された。

 両人は“日本の患者と症状が全く同じ”と語られた。この出会いが日韓労災交流の始発点になったのは言うまでもない。原田先生は其の翌年一月中旬にも来韓して***さんの1周忌の通夜の場にも参席され被災者団体の総務であった丘○一さんと詳しい話を交わし、その翌日には基督教病院に長期入院していた洪元○さんを見舞いし帰国された。

 翌年の7月初旬頃に再び原田先生から連絡があった。患者代表一人、お医者様一人(朴桂烈)、衛生技士一人(李充根)そして案内通訳として私の4人が九州の熊本市に招かれた。熊本空港に出迎えた原田先生は一行を車に乗せて八代市へ向かった。八代市では先ず“興人会社”の産災患者たちと交流する傍ら水俣の明水園や阿蘇山の噴火口なども案内、巡りながら4泊した後別れ、列車で京都に向かった。

 京都では3泊したが職対連主催の盛大な交流夕食会に参列し、翌日にはユニチカ工場や平等院そして奈良見学まで終えて帰国した。私個人としても、これが生まれて初めての日本訪問である。後で聞けばこの日韓交流を支援して頂いたのは医療法人芳和会が主になったらしいとのことである。関係して頂いた皆さんに深い感謝の念を表するところである。

 

 その年の11月またもや原田先生から連絡があり、八代で労災シンポジウムがあるので患者代表一人を伴ってくるようにと。今度は患者代表として女性の朴〇順さんが選ばれ彼女と同行した。シンポジウムの席上彼女が韓国に於ける労災の現況を簡単に報告したが日本側からは「労災問題の法的検討」を國宗直子弁護士さんが行った。翌日は興人会社を一巡りしたが正門内の第二労組事務室を指しながら当時の軋轢話など、今は故人となられた岡田さんが熱心に説明してくれた。

 

 源進財団がつくられる直前の9310月には熊本組(私なりにそう呼ぶ)が杖つきの患者を含めた数名が来韓し、こちら源進患者たちと深い交流を持ったことは言うまでもない。いつもなら固く鍵がかかっていた源進レーヨン工場の正門が開いていたので皆は2階に上がって工場内部を覗いて見た。

 

 岡田さんは興人会社の仕掛けと全く同じでずさんなものだと嘆いた。その後数えきれないほど訪韓して日韓両国労災交流を深めて頂いた重要なメンバーには北岡秀郎さんや千葉昌秋さん、長谷川博さんが挙げられる。996月の源進緑色病院開院の時や翌年6月の日韓労災シンポジウムの時も、そして20039月の緑色病院開院の時も欠かさず御来韓されるなど相変わらずの友情を保っている。上記の方達に改めて敬意を表したい。

 

 昨年11月中旬には九州社会医学研究所長の田村昭彦先生からの招待があり、八代で開かれた労災職業病九州セミナーに財団傘下の“労働環境健康研究所”の任相赫所長がパネル討論会に参加して韓国の労災事情を発表した。翌日には十数年振りに市内を巡り被災者3人の方にお会いしたが皆元気な姿を見てホッとした。韓国では今尚1千7百余人の被災者がいるが元気に活動しているのはその1/3にも足りない状況である。

 熊本組が来韓交流した1ヶ月後には、京都職対連の方達が患者を伴って訪韓してやはり深い労災交流を結んで帰国された。宇治組とは、その後も吉中丈志(京都民医連中央病院長)及びあさくら診療所の行松龍美さんや市議会議員の宮本繁夫さんらとの交流は今尚絶えていない事を付け加えたい。 

 こんなエピソードもある。939月台湾環境保護連盟の招待を受け貢料に建設を予定していた第4原発反対運動に参加したことがある。反対運動に終わった後の待機時間中に偶然左側に羅東化学繊維会社の看板が目に入った。運転手にレーヨンを生産するのかと訊ねたらそうらしい・・・との答え。患者も出ているらしいが・・・台北に日本人のお医者がいるから彼は良く知ってるでしょう・・・との答え。その話を北岡さんに話したら上記のメンバーは早速台湾に行ってきたそうであるが詳しい事情は掴めていないとのこと。それだけではない。源進が倒産した後その機械を中古として払い下げしたが、それが何と中国遼寧省丹東市の某工場で今も稼働中との話をやはり北岡さんに伝えたら例の一行がその詮索に出かけたが確認出来なかったとの話を聞いたことがある。被災者の国際連帯模索に注いだ彼らの熱意には感動するばかり。

 

 八代興国人絹の労災救済のためのタンポポの花は宇治のユニチカに飛び、海を渡って韓国の源進に飛び、更に宜蘭や安東にまで飛ぶ筈だったと言えるだろう、八代の労災闘争のタンポポの花は悩んで苦しむ働く人々の永遠な記念碑になるだろう。

 

   以上201038日 記