夏の出来事 昭和46年7月22日
幼稚だった私は高校時代の文集にこんなことを書いていた。

 『夏の出来事
 今年の夏休みは、異常なことだらけであった。先ず、(昭和46年の)七月二十二日、近くの砂川が氾濫して、自分の家から、約二百米南の家の二軒が流され、六人が死亡した。
前日より降り続いていた雨からして、少し異常であると、近くの人たちは、それぞれに予期していたということであるが、一夜明けて、外へ出てみると、全くの泥の畑となって、広がっていた。起きたときには、もう機動隊が来て、行方不明者を捜していたのには、おどろかされた。朝めしを喰い、田んぼ道で、機動隊の捜査ぶりを眺めていたら、友だちが心配してやってきた。そこへちょうど、ヘリコプターが取材のために、われわれの上空を旋回しはじめた。二人とも、いろんなポーズをとり、果してテレビニュースで出るであろうかと、期待した。実は、自分たちのいるところを中心に、半径二百米の円を描いて、その円の外側にカメラがおいてあったようだ。これでは、二人が写されるわけもない。その時の自分の内心は、悪夢の一夜が明けたばかりなので、まるで他人になって、他人の言葉で、他人の目で他人の口で見たり、しゃべったり、話したりしているような感じであった。また少し得意になっていたような、変な気分もまじっていた。六人の人が行方不明になっていることなど、心のスミにもなかったのではないかとさえ思える。
テレビのニュースで、よく他人事のように見ていた水害を現実に体験したことは初めてのこと。
死亡した人の中の一人に、幼い子供がいた。雨の降り始めた日、つまり、その六人が死んだ一日前のこと、その子供が、ヤクルトを買いにきて、こんなことを言ったそうだ。
「今日、先生にも、みんなにも、初めてサヨウナラと言えたっよ」と・・・・。そして、ヤクルトを買って、家に帰る前に、店の人へ、「さようなら」と言って、帰っていったそうだ。
 それから数時間後に死んだ。同じ、その店に、その女の子の写真が、流れ込んでいたのを、水がすっかり引いてしまってから、その台所で発見されたそうだ。写真は破れずに、完全だったそうであるが、誰も持ってこない写真が、なぜ、その店に流れ込んできたのであろうか。 残ったのは、その写真一枚だけだったそうだ。その店の人たちは、その水害後、わが家へ一時引き越してきた。その数日後、行方不明になっていた五人が発見されて、合同葬儀が行われたが、その葬儀中に、参列した中学生たちが次々と倒れて、大さわぎであったそうだ。近所づきあいの悪い自分でも、こうした色々な情報が、多くの人の口からきけた。そんな話を、一部録音しておいたが、今再生してきくと、何故か、その話がよく聞きとれない。
 ところで、夏休みも終り頃である。八月二十七日に、自分は夢を見た。
この前の水害の時に、流された八人の様子がありありと見えた。その時の苦しさが、わが身に迫ってわかり、汗がびっしょりでた。目をさますと、時計は午前二時ごろ、ちょうど、あの八人が流された時間であった。少し、気味悪くなったので、ラジオの深夜放送を聞いていた。ガラスのむこうを見ると、白く明るく光っていた。流された二軒の家の跡が、家の窓から見えるために、そんな風に見えたのだろうか。 便所へ行くのさえ恐ろしくなって、全ての電灯をつけて便所へ行き、それから蒲団に入って、すっぽり頭からかぶって寝た。本当に寝苦しい一夜であった。